2012/08/23

大木壯次さん、中学生で東京裁判を傍聴(SS2012/8/23)


2012年8月23日(木)

東京裁判、中学時代に傍聴 川越の大木さん

東京大空襲も体験した大木さん
1944(昭和19)年の晩秋に集団疎開先の群馬・四万温泉で撮影。後列右から2人目が当時12歳の大木さん。この約2年後に東京裁判を傍聴することになる
 東條英機元首相らをA級戦犯として起訴し、絞首刑などを言い渡した極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)。そんな歴史的裁判を中学時代で傍聴した人が川越市にいる。大木壯次さん(79)。中学生の少年がどのような経緯で傍聴することになり、法廷で何を感じたのか。大木さんに話を聞いてみた。
■傍聴券は兄から
 大木さんは東京都北区出身。結婚して子どもができたこともあり、1975年に川越市内に引っ越してきた。
 大木さんには通信社の経理部員だった兄の顕隆さん=2009年死去、享年83=がいた。大木さんは傍聴券をもらった時のことをこう語る。
 「兄が『極東国際軍事裁判の傍聴券が手に入ったんだけど興味あるか?』と聞いてきた。私はすぐ『興味ある、行くよ』。通信社へ券の割り当てのようなことがあり、社内で割り振られる。兄は忙しい人だったので行けなかったのでは」
 裁判の重大性を考えれば傍聴券は大人に渡すのが自然だが、大木さんは既に政治や哲学に興味があって大人びていた。大木さんには「重要な裁判だ」くらいの認識しかなかったが、顕隆さんも弟の興味や関心を知っていたから券を渡したのではないかという。
■28人の視線
 大木さんは、最寄りの板橋駅から裁判が行われていた東京・市ケ谷の旧陸軍士官学校へ向かった。到着後、米軍のMP(憲兵)の案内で階段を上り、法廷に入った。入った瞬間、ぎょっとして身がすくんだ。
 「死刑を宣告されるかもしれない28人の被告の目が一斉に自分に注がれているのを感じた。裁判から何十年と生きていますが、あんな緊張感、緊迫した雰囲気に身を置いたことはなかった」
 既に裁判は始まっていた。そんな中に来るはずのない少年が入ってきたのだ。
 「こんな所に子どもが来るのだから『俺の孫か? 誰かの孫か?』と被告たちは見ていたと思う。見に行ったはずの者が見られる、全くの逆転だった」
 廷内はすり鉢状で、中央に記録などの係がいて、それを取り囲むように連合国側の判事、検事、被告側弁護人、被告たちがいたと記憶している。
 「被告たちの鋭い目に射すくめられるような気分だった。『あそこに東條英機がいるな』くらいのことは分かったが、細かいことはよく覚えていません」。どんな状況かを見る程度の気持ちだったこともあり、20分程度で法廷を出た。
 勝者が敗者を一方的に裁くという法廷に出席させられている被告たちには怒りと悲壮感のようなものが満ちていていたと感じた大木さん。「裁判を見に来たという軽率な自らの行動を恥じる気持ちが強くなり、厳粛なその裁判を傍聴していること自体を後悔した」と振り返った。
■ラジオで聞いた宣告
 裁判は1946(昭和21)年5月から48年11月の間に行われた。大木さんが傍聴したのは46年の6月ごろだったという。
 48年の裁判の終了時、テレビはまだなくラジオで聞いた刑の宣告を大木さんは今でも覚えている。
 「生中継か、録音かは分からないが、裁判長が『Hideki Tojo death by hanging』、次の被告にも、同じように宣告していた。旧制中学では1年生から英語を学んでいたので理解でき、緊迫したあの法廷を思い浮かべながら聞いた」
 当時は「A級戦犯裁判」や「極東軍事裁判」と呼んでいて、「東京裁判」という言い方はあまりしていなかったように思うという。
■今の日本へ向けて
 終戦から67年。少年期に貴重な体験をした大木さんは今の日本についてこう話した。
 「世の中の在りようがすごく刹那的、享楽的で、底の浅い文化になった。それがほんの六十数年前のあの戦争で死んでいった軍人、一般市民の何百万という犠牲の上にあることを考えると、これで良いとは思えない。そんな日本をただ見ているだけでいいのかという忸怩(じくじ)たる思いがあるね」