2014/02/24

浅田真央「ママ、どうだった?」


「ママ、どうだった?」 。左端は3歳のとき。  *日刊スポーツ2014/02/22
(浅田真央)「ママ、どうだった?」


甘えんぼうの浅田真央は、大事な競技が近づくにつれ、メダルではなく、ママとの誓いに集中します。

5歳でリンクに出て以来、演技のあとには
    「ママ、どうだった?」
と真っ先にママの答えをおねだりしました。
    「よかったよ、真央」(ママ)

2010年バンクーバー大会で真央は2位に終わりました。

再起を期して、2014年のソチにそなえます。
理論の勉強もします。
学習ノートは100冊以上に及びました。

2011年5月真央はママの病気が肝硬変であることを知ります。
真央やおねえちゃんの肝臓の一部を移植すれば、
    「なおる見通しがあります」(ドクター)

移植への申し出をママはことわりました。
ママの答えは
    「みんな、いつも通りにね」
でした。

半年後の2011年12月、ママの様態が急変します。
真央がカナダのケベックから駆けつけた時は、ママは召されていました。
48歳でした。

真央は、15年以上も一心同体であったママと離れて、独りで、歩み続けます。

真央のソチでの目的は、2010年バンクーバー大会から積み重ねてきたトレーニングを続け、
納得できるプレーをし、
    ≪ママとの誓いを果たすこと≫
でした。

結果。

ソチでは、集大成の舞台・フリーでトリプルアクセルも成功し、自己最高を塗り替えました。
世界中に感動を与えました。

前日の16位のどん底から打って変わっての最高の演技でした。

「いつも通り」にプレーを終わった23歳の真央は、

    「ママ、どうだった?  」 

と天国のママに呼びかけました。

それが上のうれし涙の写真です。<※ 真央のうしろには、3歳の時のスケート姿の写真が。>

    …
    …

   「よかったよ、真央」(天国のママ)

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*日刊スポーツ2014/02/26
(浅田真央)「森さん、後悔していると思います」

(森喜朗元首相)「真央ちゃん、あの子、大事な時に必ず転ぶんです」


浅田真央は、前日の転倒16位にもかかわらず、翌日のフリーでは自己ベストを更新し、2010年のバンクーバーのリベンジを果たしました。

ソチでは、最終的に、自分のめざしていた演技ができました。


(浅田真央)
「強い意志をもってあきらめなければ、自分の目指しているものができるんだなと強く感じました。
それが自分の人生にも生きてくるんだど感じています」

「ああいう発言をして、森さんも少し後悔しているんじゃないかと少し思います」(会場は拍手喝采。外国特派員協会にて)

(Jack Gallagher, JT 2014/02/25)
・専門家は、浅田真央には、トリプルアクセルがわかっていました。しかし彼女は頑として挑戦し続けました。
・審判員も真央はトリプルアクセルをする必要はない、と言っていました。


でも、真央は、メダルを超えて、国家を超えて、
    自分のため、ママとの誓い
のために、無謀に思えるトリプルアクセルに挑戦し、自己実現を果たしました。

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浅田真央  【動画】13分より

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ファンから「金より価値のある演技」の声

浅田真央が再び国民的スターになった瞬間

キャロライン・ケネディ駐日米大使「浅田真央は真のチャンピオン」




【追記】

ソチ五輪、浅田真央、ツイート数世界一
アサダは、アラビア語でメスライオン。
空海の幼名は 眞魚(まお)です。
中国語人は、Maoで毛沢東(Máo Zédōng[)を惹起するかも知れません。

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復元力
サムライ
審判員の前で安全な演技をするよりもベストを尽くすことが重要だった。
2日間で 地獄と天国
絶望と喜び
頑張り屋の末娘
最悪のショートから最高のフリーまで  一晩
できない理由を入れない。
黙って努力、人に頼らない。

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