2008/02/12

島津斉彬(なりあきら)。西洋の技術を取り入れ、西郷隆盛や大久保利通をそだてた開明藩主。7月16日没

島津斉彬(なりあきら)。西洋技術を取り入れ、西郷隆盛や大久保利通をそだてた開明藩主。7月16日没

島津斉彬(なりあきら)


・1809年4月28日。江戸~1858年7月16日没。50歳

島津斉彬(なりあきら)は、幕末期の薩摩藩主です。
西郷隆盛や大久保利通をそだてます。

西洋文化を輸入し、軍備拡張につとめます。
製錬所、反射炉、溶鉱炉工場をつくります。


島津斉彬(なりあきら)は、薩摩を、日本を変えます。

ところで
1840年の英国とのアヘン戦争で中国はやぶれます

 次に英国の植民地になるのは、日本です。
まずは、琉球、そして薩摩藩のはずです。


ペリーは、日米和親条約(1854年)締結前に、
4回薩摩藩に属した琉球をおとずれ
琉球の港、家屋、地質、鉱物の徹底調査をおこないます。

このころアメリカは貿易、外交にも荒っぽく、
中国をまずはアヘンの対象にします。
琉球を中継港にして、中国をイギリスから奪う予定
です。


鉄砲の伝来、キリスト教の布教といった日本と
西欧の出会いの舞台を演出するのは薩摩藩です。
薩摩の嗅覚がするどくなるのは当然です。


斉彬は、日の丸を考案します。
従来の和船では、100トンしかなく、
旗がなくても形からすぐ日本の船だとわかりました。
洋式船を建造することになり、日本の船であることを示す旗が必要になります。
1860年、日の丸が国旗になります。


銃を発射するためには、アルコールが必要です。
焼酎のアルコールを使います。

しかし、従来の米焼酎では、コストがかかりすぎます。
斉彬は、芋で焼酎をつくるように命じます。
斉彬がはじめた芋焼酎は、生産が追いつきません。


斉彬は、伝統工芸の薩摩焼を輸出商品に育て上げる努力をします。
今、海外にある日本の焼き物の半分以上は薩摩焼です。
薩摩焼 【画像】


薩摩切子(きりこ)の生みの親は、斉彬です。
透明ガラスの外側に色ガラスをかぶせ、
色ガラスをカットして文様を浮かび上がらせます。
水墨画にも通じるぼかしの美は、薩摩切子の独創です。
薩摩切子 【画像】


斉彬は学問を重視します。
造士館、演武館、国学館、洋学所の改革設置をおこないます。
江戸、長崎への留学を奨励します。

斉彬は、多くの蘭学者と交流し、西欧の最新知識を吸収し続けます。
ローマ字で日記をつけます。
地球儀を常用します。


日本最古の写真は、1857年斉彬を写したものです。
斉彬は、「父母の姿を100年の後に残す貴重な術」としての写真術の研究を進めます。


薩摩藩は、欧米列強の脅威を身に受けています。
斉彬は、海軍力を重視し、海軍の養成に注力します。

山本権兵衛、東郷平八郎などの逸材は、
このような「海の薩摩」の環境の中で生まれます。


在位わずか7年半の間に、
斉彬は今日の薩摩、日本の土台をつくりあげます。

斉彬(なりあきら)のプロジェクトは、
西郷隆盛、大久保利通らにひきつがれます。
特に大久保は各地に民営工場を築き、産業の育成につとめます。


名言

「西洋人も人なり、
佐賀人も人なり、
薩摩人も人なり。
屈することなく研究に励むべし」


尚古集成館

【※】『集成館事業 島津斉彬の挑戦』尚古集成館、2003年。
(2008年鹿児島市吉野町にて。
島津氏32代当主・島津 修久氏より上記書籍を拝受。
初代・忠久は、比企の乱に関係していたことを談義。
薩摩藩の祖 島津忠久は、武蔵国の出身 

尚古集成館の偉業:
反射炉 溶鉱炉 紡績工場 造船所:最初の洋式軍艦 昇平丸 切子 薩摩焼 写真 活字印刷

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