2012/04/30

あいづっこ宣言。会津若松市

会津若松市
◇                    ◆                    ◇

あいづっこに綿々と受け継がれている精神、
それは、
「ならぬことはならぬものです。」

グローバル時代を先導しています。

◇                    ◆                    ◇

 1 人をいたわります

お年寄りや困っている人に親切にしましょう

自分をはじめ、命あるものを大切にしましょう

みんなのために、すすんでボランティア活動をしましょう

2 ありがとう、ごめんなさいを言います

「ありがとう」の気持ちをもちましょう  まちがったことは素直に認め、あやまる気持ちをもちましょう  礼儀について心がけ、言葉づかいに注意しましょう

3 がまんをします

甘えをおさえ、わがままをいわないようにしよう  失敗や困難な体験は、大きな経験となります  なにごとも最後までがんばりましょう

4 卑怯なふるまいをしません

自分さえよければという考えはなくしましょう  うそをついたり、人のいやがることはしないようにしましょう  人として恥じない正々堂々とした行いをしましょう

5 会津を誇り年上を敬います


自然体験や社会体験を通して、会津のことをよく知りましょう

会津の歴史や文化を学び、先人、両親、そして年上の人を尊敬しましょう

生まれ育った会津を誇り、愛する気持ちをもちましょう

6 夢に向かってがんばります

目標に向かって、くじけずに努力しましょう

みんなの夢のために、もてる力を使いましょう

みんなでよりよい会津をつくりましょう






やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです

わるい誘惑に負けない強い心を持ちましょう

やらなくてはならないことは、しっかりとやりましょう

自分勝手な行動はやめ、社会生活のルールをまもりましょう


保科正之 「ならぬことは ならぬものです」
「会津〇〇駅」でいっぱいの会津地方 【写真】

◇                    ◆                    ◇

国の前に、まず故郷を愛しましょう。


 「人間は、ウルトラ地方主義者であると同時に普遍的でなければならない」
スペイン・バルセロナ出身の画家・ダリ

「井の中の蛙は、井の外に虚像をもたなければ、
井の中にあること自体が、井の外とつながっている」
吉本隆明(2012年3月没)

2012/04/28

シヴァ神は苦行者の守り神

http://goo.gl/TXdbo
インドには苦行を積むことによって、超自然的な力が得られるという思想があり、ヨガにもその傾向が見られます。

yogaは、yoke(馬にくびきをかける)と同根です。
馬を御すように心身を制御するのがヨガです。

シヴァ神は苦行を積み重ね、苦行者の守り神とあがめられています。
苦行者はおおむねシヴァ信徒です。

仏教を開いたシャカも苦行を積みました。

苦行の思想は密教を通じて、日本にも伝わり、修験道を生み出しました。

ヨガ修行中のシヴァ神  http://goo.gl/VqPvR


ジャパン、ニッポンは福建語から


Marco Polo(1254- 1324) http://goo.gl/DA2Wj
1292年、マルコ・ポーロは泉州から海路帰国の途につきます。

『東方見聞録』のマルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」を知ったのは、福建省の泉州においてでした。
 <*  日本は西欧と違い、輸入品には金などの自国の産物で支払いました。
江戸時代まで外国から奪うことはありませんでした。>

泉州では、日本はジップン jitpun と発音します。

jitpunから、JapanさらにはNipponが生まれたと福建人はいいます。

とすると、JapanとNipponは、福建語起源の一卵性双生児となります。

泉州は、西欧にはザイトンとよばれていました。
宋や元の時代には中国最大の貿易港で、海のシルクロードとして発展しました。

◇                    ◇                    ◇

福建語の発音 【0:37】

福建語は、言語学では閩(ミン、びん)語といいます。
大きくは、閩北語、閩東語、閩南語に三分されます。
閩南語には、泉州語、アモイ(厦門)語、台南語、閩州語が含まれます。

台湾では福建系が9割を占め、台南語を話します。

【cf.】
 桑原政則「中国語系諸民族の言語と文化」1997年

李登輝と台湾の民主化: 第3章 李登輝の台湾


第1章 西欧、清、日本統治下の台湾

第2章 国民党時代の台湾


第3章 李登輝の台湾


1 李登輝、総統に


1988年1月、報禁(新聞新規発行禁止)が解除された。これにより、日刊新聞の新規発行が認められるようになった。戒厳令解除後のメディアに対する最初の規制緩和措置である。これまでは、『聯合報』『中国時報』の政府系新聞が独占状態であった。
1988年1月13日は多くの台湾人にとって、忘れられない日となった。それは、蒋経国が死去した日としてではなく、台湾人が総統になった日としてである。蒋経国は死去に当たり、後継者の指名はしておらず、党・政・軍・特(国民党・政府・軍部・特務機関)の4首脳が協議して、李登輝を選んだのであった。
党・政・軍・特の4首脳は、規定に従って、やむなく、李登輝を総統に指名したもののこれら蒋介石、蒋経国子飼いの実力4首脳および国民党上層部は、李登輝が国民党主席に就任することには強い拒否反応を示した。外省人が中心の国民党は、大陸中国の共産党に似た組織で、国民党主席は総統より上位にあるNo.1の地位を占め、人事権を一手に掌握するからであった。国民党上層部は李登輝を「ロボット総統」として操る目算であった。
しかし、「李登輝時代」の流れを止めることはできず、紆余曲折を経ながらも、李登輝は「絶対多数の台湾人の指示と期待を背景に着々と地歩を固め、巧妙な手腕で権力の掌握に努める一方、民主化を強力に推進し、一党独裁の国民党の党首でありながら、民主主義の基本である政党政治を実現させたのである。」(伊藤、1996a、p.237)
李登輝は総統就任半年後に党主席に選出された。その間、民主化の第1歩として政治犯の一部を減刑釈放した。1988年といえばソウルオリンピックの年であり、日本のメディアは、日本を世界で一番理解してくれる隣人の国のこれら一連の重要事を等閑無視した。この年から、台湾は、資本の輸出国、高所得国家となる。
1989年1月、人民団体組織法が採択された。これは、政党の結成を合法化するもので、政党の誕生があいつぐようになった。6月4日北京で天安門事件がおこり、、この年の後半には東ヨーロッパの共産党独裁体制があいついで崩壊した。東ヨーロッパの崩壊は、日本では社会主義の崩壊ととられたが、台湾では独裁国家の崩壊と受け止められた。これは国民“共産独裁”党にとっても大きな衝撃で、逆に李登輝の「国民党の利益より国家の利益を」重視する政治改革・民主化路線には追い風となった。李登輝は政治目標として、民主化の他に、国際社会への復帰、中国との敵対関係の解消、中国の武力侵攻に備えての防衛力の整備を掲げていた。

2 李登輝、総統に再選


1990年3月、李登輝は第8期総統に再選された。この間、外省人の長老を中心とした保守派は激しく抵抗した。この時には主な新聞や地上波テレビは、反李登輝であった。主なメディアの幹部は大部分が外省人を中心とする軍や公務員の子弟で、依然として党と蒋介石・経国父子に特殊な感情を抱いていたからだ。さらに政治の台湾化の脅威と不安感が、李登輝総統に非難の矛先を向けさせた。こうして、主流派と反主流派の対立が次第に表面化、激化していくようになる。
同1990年3月、学生たちが“万年”議会の解散、政治改革などの民主化を要求する座り込み、ハンストをおこなった。万年議会とは、1947年、1948年に中国全土から合法的に選出された国会議員からなる議会である。万年議会は自分たちが中国を代表するもので中国共産党の中共政権は違法政権とする。国民党政府にとっては、中国全土から合法的に選出された議員がいなくなれば、みずからの正統性を失うために、彼ら終身議員に特権を与え優遇してきた。中国大陸でで改選選挙をおこなうこともできず、さりとて台湾でおこなえば中国全体を含むことにならないので、40年間以上も改選をおこなってこなかった。彼ら“終身老賊”議員は、李登輝の民主化推進は、長年の特権をうばい、みずからの地位をおびやかすものなので、李登輝つぶしに必死となった。
1991年3月、李登輝は、反主流派反発の中、総統府で2・28事件の遺族代表と会見した。5月、政府は中国政府、政権を敵視した「動員戡乱時期」の終了と「動員戡乱時期臨時条款」の廃止を宣言する。李登輝の中国政府との和解政策の第1歩である。
7月、政府は李総統の任期にあわせて「国家建設6ヶ年計画」を開始した。この計画は、高度成長によってもたらされた交通、環境汚染、治安、文化・レジャー施設不足、勤労倫理喪失などの社会的問題を解決することを最大の目標としている。予算3000億ドルで、国民生活の質的な向上の他に、国民所得の引き上げ、産業基盤の強化、台湾各地域の均衡的な発展も射程に入れている。「国家建設6ヶ年計画」の終了時には、台湾はアジアNIESのリーダーから、経済先進国の仲間入りを果たすことになる。この年、各地に民進党系のケーブルテレビ民主台が誕生した。しかし、新聞、テレビなどのマスコミは、依然反主流派系、反李登輝であった。
同1991年9月、李登輝総統は、戒厳令時代には考えられなかったことであるが台湾人政治家を公邸に招待した。10月、民進党が、台湾独立を党綱領にすえ、内外に大きな衝撃を与えた。同10月、李登輝は、「野党の存在は必要」と語った。まさにその通りで、民進党は李登輝を党派に関係なく、支えることが多かった。12月、40年以上も改選のなかった700人ほどの平均年齢80歳にも届く万年議員の退職がようやく実現し、李登輝のめざす政治改革の大きな障害が除去された。

3 李登輝、2・28事件45周年行事に出席


1992年2月、2・28事件の45周年記念音楽会に李登輝は妻同伴で出席した。2・28事件は、外省人の最大の犯罪であり、外省人特権層の恥部を暴くものであった。5月、刑法第100条が改正された。この改正により、思想犯、陰謀罪は成立しなくなり、関係政治犯も釈放された。言論の自由へ大きく踏み出すことになった。
7月、民進党主席の許信良と総統府で会談した。これは、一党独裁に親しんできた国民党反主流派には、通敵行為であり衝撃を与えた。8月、改正国家安全法が施行され、帰国禁止者のブラックリストが大幅解除された。また、これがため「我々70代の人間は、夜にろくろく寝たことがなかった」(李登輝)警備総司令部が廃止された。警備総司令部は戒厳司令部であり、強権と圧制の代名詞であった。
1992年12月には、40年以上ぶりに立法委員選挙がおこなわれ、国民党政権は台湾で初めて選挙の洗礼を受け台湾での正統性を獲得した。国民“共産”党もここに晴れて台湾国民“民主”党に生まれ変わることができた。李登輝なかりせば、国民党のこのような「新装開店」はあり得なかったであろうし、国民党が政権を維持し続けられたかは疑問である。しかし、国民の、時代の要請にしたがって、李登輝が民主化を進めれば進めるほど、外省人特権層は既得権益を奪われていくことになり、李登輝を国民党の簒奪者ととるようになっていく。反主流派代表格の行政院長 柏村は、公然と李登輝に反旗をひるがえすようになった。
国民党は国民党財閥といわれるほど、金融、製造、貿易、通信、航空、テレビ、ラジオ、出版など多種多様の公営企業を経営している。李登輝は、これら企業の株式の公開をおこなっていく意向である。しかし、反主流派また主流派が、共に根強い抵抗を見せているが、株式公開なしには台湾の真の民主化はありえない。
1993年、この年から本籍規定が戸籍から削除された。これにより身分証から祖先の籍を記す「籍貫」項目がなくなり、台湾生まれであれば本省人と外省人の区別がつかないようになった。これは、本省人と外省人の対立感情の融和策で李登輝の強い意向によるものである。
同年2月、李登輝は軍事クーデターの広まる中、行政院長(首相)を赫柏村から台湾省政府主席の連戦にかえた。これに対して、国民党系が反対デモ隊をおこなったが、一連のデモに対して、知識人は集会を開き国民党反主流派の行動は、台湾人と外省人の反目を助長するだけのファシスト的反社会行動であると位置づけた。連戦行政院長の誕生で、李登輝は党・政・軍・特のすべてを掌握したことになる。
連戦は、李登輝の腹心で、1936年狭西省生まれの本省人である。祖父は台湾史の古典『台湾通史』の著者連横、父は内政部長の連震東である。台湾大学政治学科を経て、シカゴ大学で政治学博士を取得した。台湾大学で教鞭をとったあと、交通部長、行政院副院長(副首相)、外交部長、台湾省主席、行政院長(首相)を歴任する。1996年の初の民選総統選挙では、副総統候補で当選した。名家、高学歴、富豪で妻が元ミスチャイナという庶民離れした経歴の持ち主である。2000年の総統選挙に国民党から出馬する。
2000年の副総統選挙にはショウ(桑原:漢字に訂正→クサカンムリ+粛)(しょう)万長が出馬し、総統候補の連戦とコンビを組むことになる。ショウ(桑原:漢字に訂正→クサカンムリ+粛)万長は1939年生まれの内省人である。政治大学を卒業後、国際貿易局長、経済部長、経済建設委員会主任委員と経済官僚の道を進み、APECには李登輝総統の代理として出席した。1995年には、立法委員選挙に出馬当選した。

4 台湾と韓国


ともあれ、こうして、李登輝は、外省人中心の国民党を、台湾国民の国民党に変えるという「静かなる革命」を、韓国とは対照的に、ねばり強く続けていく。

「李登輝政治の、ことに民主化の推進を見るとき、韓国の金泳三大統領の政治が好対照であろう。李登輝の民主化推進は文字どおりの「無血革命」であり、蒋介石・蒋経国二人の総統の悪政を糾弾することなく、前政権の負の遺産をも背負いつつ、漸進的な改革をめざす「温和な改革」そのものである。金泳三は前政権の二人の大統領までを裁判にかけ、囚人としての姿を国民の前にさらすなど、「民主化革命」の観がある。
(伊藤潔、1996a、p.238.)

台湾と韓国は、何かにつけ、比較されることが多い。以下は、在日台湾人と在日朝鮮人についての一考察である。

スポーツ界でも芸能界でも多くの韓国人、台湾人が日本で活躍しているが、韓国人の場合は自己のアイデンティティを隠すのに対し、台湾人の場合は堂々とそれを前面に押し出し、日本社会に受け入れられているという点を指摘した。その上で野球の張本勲選手と王貞治選手の伝記映画がそれぞれ韓国と台湾で少年向けに製作されたことを紹介した。
それによると、王選手の映画は、王選手が少年時代に東京の下町で周囲から親しまれ、野球が上手かったことからお巡りさんがファンクラブの会長になり、息子をラーメン屋の跡継ぎにしようとしていた父親を、周囲の人々が説得して王少年がますます野球に磨きをかけ、そして日本のプロ野球を代表する名選手になるという、見ていて非常に楽しい映画であった。一方、張本選手の映画は、在日であるため高校野球にも出られず、恋人にも逃げられ、差別という苦労を嘗め尽くしながら日本プロ野球界で成功するという立身出世物語であった。ちなみに映画の題名は、王選手のが「感恩歳月」で、張本選手のが日訳すれば「張り裂けんばかりのこの胸」であった。
報告者は、こうした映画を作成するところにも、台湾と韓国の日本に対する見方の相違が見て取れると述べる。なるほど台湾の「哈日族」が日本のマスコミでもときおり紹介されるが、台湾では若い世代にも日本に親しみと親近感を持ってくれる人々の多いのは、こうした社会背景があったればこそのことであろう。日本文学をとおし、台湾の「哈日族」がさらに底の深いものになってくれるとともに、日本でもレベルの高い「哈台族」が多く生まれることが期待されてならない。
(喜安幸夫、1999.)

5 李登輝、党主席に再選


同1993年2月、李登輝ははじめて台湾の国連復帰に言及した。このことは、台湾が中国と共に国連の1員になること、つまり2国家を認めることになり、中国政府と国民党反主流派の反発を招いた。このように、共に1党独裁体質の中国政府と国民党反主流派の言動は、反李登輝に関して軌を一にすることが多くなっていく。3月、2・28事件賠償条例が採択された。これも李登輝の強い意向で採択されたもので、反主流派には苦々しいことだった。
同年8月、国民党のなかの外省人反主流派、戒厳令下で特権を享受した外省人特権層が中国新党を結成した。中国新党は別名「反李登輝党」といわれるほど李登輝政治にことごとく反対する。

(中国新党は)李登輝を台湾独立の推進者とすることで、中国政府と同調もしている。かつて、徹底した反共を標榜した中国新党と中国共産党政府の連係プレーこそが、近頃の台湾政治の混乱の主要な原因なのである。…このように中国政府の威を借り、支援を受ける外省人勢力への対応は、李登輝の総統在任中はもとより、その後継者にとっても難しい課題である。
(伊藤潔、1996a、237.)

同8月、李登輝は、党主席に再選され、ここに 李登輝体制が確立した。11月、李登輝は「国民党政権も外来政権である」と発言し、反主流派の猛烈な反発を受けた。同11月、日本語放送が全面解禁となった。12月、連戦行政院長は、南向政策の一環としてシンガポール、マレーシアを訪問した。南向政策は過熱化している中国投資を東南アジア投資へと軌道修正をはかるもので、東南アジア諸国からは歓迎された。この頃の台湾の一人あたりの国民所得は10000ドル以上であるが、中国は400ドルにすぎない。
1994年1月、連戦行政院長は、現実外交促進のため中南米4カ国を歴訪した。2月、李登輝は、中国の批判をものとモーゼず、フィリピン、インドネシア、タイの3カ国を訪問し、台湾の投資を促進した。3月、中国浙江省で千島湖事件がおこった。24名の台湾人旅行者を乗せた観光船が千島湖で襲われ、全員が船内で焼死体で発見された事件である。中国当局が、現場検証、現場の撮影、遺体の引き渡しを拒み、遺体を現地で荼毘に付したことから、台湾側はこれは、強盗、放火、殺人、遺体遺棄事件と断定した。台湾のマスコミは、蹂躙されたのは24人の台湾人だけでなく2200万の台湾人の尊厳だ、と怒りをあらわにし、李登輝も中国当局のやりかたは、土匪と同様だと非難し、王朝時代から現在に至るまで中国国民には自由な意志など存在せず、中国は文明国家でない、と述べた。

6 台湾の歴史、地理を知らされない学生


同1994年4月、李登輝は、台湾人には台湾を教える必要があると語った。事実、台湾の歴史、地理を台湾人は驚くほど知らない。大陸全体が中華民国であるので大陸の歴史、地理ばかりおしえられるからだ。台湾は中国のほんの1部にすぎず、台湾には歴史的、文化的独自性はないものとされた。台湾の独自性を認めると、国民党が台湾を統治する論理的根拠がなくなるからである。
筆者が1997年に購入した『新無敵 國中 本國地理図表全集』(翰林出版)をひもといても、それは中国地図帳そのもので、台湾についての詳細は描かれてない。一般に台湾の学生は、自分が行ったことがない台湾の地名は知らない。筆者(桑原)は20年来、台北にいくつ区があるか、とたずねているが知っている大学院生に出会ったことがない。
上述の地図帳では、モンゴルも中華民国領土のままになっている。北朝鮮は韓国領土になっている。沖縄もなく、琉球群島と記されているだけである。ここでは沖縄はにほんのりょうどになっていない。南沙群島は自国領に含めている。
また、北京も存在しない。あるのは「北平」である。首都は南京になっている。この中国地図は中華民国が中国大陸に存在した半世紀前の世界を踏襲しており、台湾人学生はこれをおしえられているのだ。筆者は、日本人学生諸君を台北郊外の「小人国」というテーマパークに案内したことがある。中国地図のミニチュアのまえで「台湾では、中国の首都は南京です。標準中国語は北京語とはいいません。標準中国語は、台湾では「国語」といいます。ここ台湾では、中国人とは大陸の人で、自分たちは台湾人と思っているのでことば遣いに配慮してください」と説明したが、これらの事実を知っている日本人は少ない。

7 李登輝、台湾人の悲哀を語る


1994年4月、司馬遼太郎と対談し、台湾人に生まれた悲哀を語った。この対談は大きな反響を呼び台湾でも中国でも全訳され、反主流派と中国政府をいたく刺激した。中国では政治「反」学習用のテキストとしても配布された。このときの語録を次に掲げる。

・台湾は、台湾人のものでなければいけません。
・北京が大中華帝国をつくろうとしたら、アジアは大変なことになります。
・学校で、台湾のことを教えず、大陸のことばかり教えるのはばかげた教育です。
・私は率先して、台湾語で話します。
・いままでの台湾の権力を握ってきたのは、外来政権です。国民党にしても外来政権です。
・かつて我々70代の人間は、夜にろくろく寝たことがありませんでした。
・台湾の民主化に北京は頭を痛めています。民主化が進めば、国民党と共産党の話し合いで国を決めていくことができなくなるからです。
・鉄砲一つもたない、握り拳も弱い、国民党のなかでグループももたない私がここまでやってこられたのは、心の中の人民の声がささえてくれるからです。
・(台湾は新しい時代に出発しました。)モーゼも人民もこれからが大変です。
(司馬、pp.372~393)

1994年5月、中米とアフリカ4カ国を歴訪した。李登輝が強行軍の外遊を続けるのは、外向的な孤立を打破し、国際社会で台湾をアピールするためである。このとき、ハワイで入国問題がおこった。李登輝は、米国に入国する機会を得るために、あえてハワイで給油する行程をとった。しかし、中国政府の圧力のため、ハワイ軍用空港での機内待機という屈辱的処遇を受けた。これに米国議会、世論は激昂し、議会は台湾の国連加盟支持などあいついで台湾寄りの決議案、台湾問題に関する改正案を採択したり、有力者の談話、訪台などで台湾をサポートした。
9月、李登輝の広島アジア大会出席問題がおこった。結局、中国政府の日本政府に対する圧力で李登輝の訪日はならなかった。李登輝は「訪日の決定権はどうやら北京にあるようだ」と語ったが、李登輝の出席表明は、日本政府の弱腰を承知の上で、台湾を国際社会にアピールし、日本とのいびつな関係改善をめざすためであった。しかし、アメリカとは違って日本のマスコミの反応には見るべきものはなかった。
12月、民進党の陳水扁が台北市長に当選した。首都台北に民進党の市長が誕生したことは、画期的なことである。陳水扁は、外省人特権層が長期にわたり不法居住している官邸、官舎の回収に着手した。これを、反主流派は、これは李登輝のさしがねだととらえ猛反発した。同12月、李登輝は『経営大台湾』を刊行した。李登輝の行政業績と政治理念がうかがえる500頁以上の大著で、現在まで23万部を発行している。
1995年1月、「台湾をアジア太平洋オペレーション・センターに発展させる計画」が閣議決定される。これは、李登輝が総統選挙に向けた公約でもあった。これは、大幅な規制緩和のことで、台湾の市場を自由化し、行政を簡素化することを目的としている。その他、電信の経営部門の民営化、資本の輸出入の自由化、海運・空運の能率向上も含まれ、これにより台湾をアジア太平洋経済のハブにしようとするものである。
2月、台北新公園で2.28事件の慰霊碑落成式があり、李登輝は関係者に謝罪した。2.28事件は外省人と内省人の省籍矛盾の原点であり、これをさけては両者の融和はあり得ないからである。しかし、反主流派は慰霊碑の建立にも謝罪にも反発した。国民党政権の犯罪を認めることになるからであった。

8 李登輝、コーネル大を訪問


同1995年6月に李登輝は、「月着陸と同じほど難しかった」米国のコーネル大学を訪問し、講演した。4000人の観衆と300人の報道陣の前で、台湾人がいいたかったすべてを言い尽くし、台湾を国際社会に強烈にアピールし、台湾の国際組織への復帰に理解と協力を求めた。この訪問の大成功に中国政府は猛烈に反発し、李登輝を米国の政府の傀儡と糾弾した。しかし、かえって中国の過剰反応は、各国のマスコミの関心を喚起し台湾の存在をアピールすることになった。7月と8月に中国は、台湾海域北方で台湾攻撃のミサイル射撃演習を、10月と11月にも台湾上陸を想定した3軍の合同演習を福建省近海でおこなった。
9月、李登輝のAPEC大阪会議出席問題がおこった。ここでもまた、中国政府の無原則に盲従し、中国の属国状態に甘んじる日本政府の弱腰がうきぼりになった。12月、第3期立法委員選挙で、国民党は過半数を制した。この選挙では、国民党の過半数割れにより李登輝の総統再選をはばまんとして、新党と反主流派が共同作戦をとり、また民進党も同様の作戦をとった。しかし李登輝の国民党は過半数を制することができた。

9 李登輝、初代民選総統に


1996年3月、李登輝が初代民選総統に選ばれた。国民が総統を直接選んだのは、漢民族国家で最初のことであった。後世の史家は、台湾はこのとき、中華民国から台湾国へ移行したと記すであろう。イギリスから独立を獲得したアメリカになぞらえれば、李登輝は台湾のワシントンである。
選挙期間中、中国は李登輝の支持率低下をねらい、台湾近海で、ミサイルを試射、駆逐艦に戦闘機を交えた実弾演習を強行した。アメリカも空母2隻を派遣、戦闘機の発着訓練をおこなった。台湾がアメリカを頼もしく思うのは、このようなアメリカの迅速果敢な行動である。このような折、「台湾はアメリカには頼むが日本には頼まない。」中台問題についても日本の仲介を好まない。「これは一面では日本の外交経験の限界、あるいは外交信頼性の限界だと思う。日本は戦後、国際政治関係の中で調停役を買って出てうまくいったという実績、経験はあまりない。…。日本と台湾は経済的には非常に密接な関係があるが、政治的な信頼関係はない。」(と(桑原:漢字に訂正→ニスイ+余)照彦、1995、p.206)

ところで、この総統選は、一般市民の小競り合い、数百人単位のタクシーの運転手の乱闘、ヤクザの銃弾抗争など島全体を緊張と興奮に包んだものであった。結果は李登輝・連戦組は54%、民進党の彭明敏組は21%、新党の林洋港・柏村組は15%を獲得した。
この選挙では、国民党から李登輝、民進党から彭明敏、無所属の林洋港など4人が出馬した。林洋港は、台北市長、台湾省政府主席を李登輝より早く経験した李登輝の先輩格の本省人であるが、蒋経国時代に頭角をあらわしすぎ、警戒心をもたれ、後継者になる道は李登輝に譲った。林洋港は、安全保障の観点からの中国との統一派である。
これら3人の立候補者は、日本語が母語同様の元日本人であるために、この選挙は「皇民選挙」とも揶揄された。しかし、日本のマスコミはこのことに無関心であった。李登輝が「静かなる革命」をおこなえるのも、外省人支配の幕引きから李登輝へのバトンタッチにキーマンとなった林洋港、さらには彭明敏ら民進党などの台湾独立派の存在によることが大きいことを忘れてはなるまい。

10 言論自由の時代へ


1996年8月、138局のケーブルテレビ局が認可された。これにより、台湾は言論統制時代から一気に言論自由の時代に進んだ。
1997年6月、非国民党系の地上波テレビ局が開局した。李登輝の狙いは、台湾のテレビを「国民党のテレビ」から、「台湾のテレビ」に変えることにある。
1997年9月の新学期から、中学で「認識台湾」(台湾を知る)という教科がはじまった。李登輝が強く主張していたもので、初めて2・28事件もとりあげられた。先述のごとく、それまで台湾の子供たちは、台湾の歴史を教えてもらえなかった。中3で台湾の歴史はたった300字であった。台湾の山川の名前知らない子供がこの間育っていった。また、日本の植民地統治についても但し書きがつきながらも、日本が台湾で経済政策やインフラ整備を行ったことを評価しているものである。
1999年 李登輝は『台湾の主張』を著し、台湾の台湾人化を主張した。李登輝が総統になって11年目のことである。『台湾の主張』は、筆者が今夏クアラルンプール国際空港の書店に立ち寄った際は、中国語版も英語版も一番目に付くキャッシャーのカウンターに並べられてあった。このなかで李登輝は中国に対して「大中華主義」を放棄し、中国を台湾、チベット、新彊、モンゴル、東北などの7つのブロックに分け、各地をその特性にもとづいて発展、競争させ、それによって安定を維持すべきだと提案し、論議をよんだ。

理想的なことを言えば、台湾は台湾でアイデンティティを確立し、チベットはチベットで、新彊は新彊で、モンゴルはモンゴルで、東北は東北で自己の存在を確立すれば、むしろアジアは安定する。中国は広大な大中華から脱して、七つくらいの地域に分かれて互いに競争した方がよい。
(李登輝、1999、186-187)

1999年7月、李登輝は、両岸関係を「特殊な国と国との関係」と位置づけ、台湾・中国「二国論」を展開した。

11 台湾人でよかった喜びの創造へ


1999年5月19日、李登輝は、『台湾の主張』の出版記念パーティの席で、次のように述べた。

私は「台湾人に生まれた悲哀」を語り、広い論議を引き起こしました。しかし今日、私は確実に「悲哀の歴史の中にありながら、同時に今日の幸福を育んできた」と感じています。しかも私としても、この「幸福」は私一人だけのものではなく、それはこの土地のすべての国民のものであると感ずるのです。
(『週刊台湾通信』990527)

李モーゼは、「台湾人に生まれた悲哀」を「台湾人でよかった喜び」にするために、台湾人を新天地に導こうとしている。李登輝はこの10数年の急速な構造変化を「静かな革命」とよぶ。「静かな革命」は、民主化、現実外交、両岸関係の展開、経済のグレードアップの4分野からなっている。かつては、経済の発展が何よりの課題であったが、今後は政治のウエイトがますます高くなっていく。
次代を担う台湾人が、李登輝の示した4分野にどう対処していくかで台湾のみならず、アジア、世界の未来が大きく左右されるものと思われる。また、日本側から見れば、このように大きく躍進しつつある台湾を理解することが、複雑混迷の世界を理解するカギであり、ひいては日本にとっては日本の安全と平和のカギでもあろう。

1) 本稿は、1998年度東京国際大学共同研究の一部をなすものです。前稿は、「マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー  その現状と展開  」『東京国際大学論叢 人間社会学部編』第4号、1998です。次稿は、「台湾のメディア その現状と展開」と題し、『東京国際大学応用社会学研究  東京国際大学大学院社会学研究科』第10号、2000に掲載予定です。
今回も「マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー  その現状と展開  」の「注」で記した方々のお世話になりました。記して、感謝いたします。
2) 1999年9月21日、台湾中部で発生した大地震に対して関係者のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。

参考文献


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桑原政則「マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー その現状と展開」『東京国際大学論叢  人間社会学部編』第4号、1998.
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高木桂蔵『客家(ハッカ) 中国の内なる異邦人』講談社現代新書、1991.
高橋晋一『台湾 美麗島の人と暮らし再発見』三修社、1997.
と(桑原:漢字に訂正→ニスイ+余)照彦、『台湾からアジアのすべてが見える』1995、時事通信社)
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明敏『自由台湾への道』社会思想社、1996.(原著は、Taste of freedom, Holt, Rinehart and winston, 1972.)
李登輝『愛と信仰 わが心の内なるメッセ-ジ』 早稲田出版、1989.
李登輝、陳鵬仁『台湾がめざす未来 中華民国総統から世界へのメッセ-ジ』 柏書房 、1995.
李登輝、加瀬英明『これからのアジア』光文社 、1996.
李登輝『台湾の主張』PHP、1999.
林樹枝『台湾 事件簿』社会評論社、1995.
宝島社編集部『台湾興奮読本 』『別冊宝島WT9』宝島社、1996.
呂文彩『新無敵 國中 本國地理図表全集』台北、翰林出版、1997



地図の説明

中華民国地図(学校教材用)

韓国が朝鮮半島全体を占め、沖縄は日本領になっていない。モンゴルは中華民国領のままである。南沙群島は、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイも領有を主張しているが、中華民国領となっている。また、別のページでは、北京は北平に、首都は南京となっている。


李登輝と台湾の民主化: 第2章 国民党時代の台湾


第1章 西欧、清、日本統治下の台湾

第2章 国民党時代の台湾


1 2・28事件と蒋介石


1947年2月28日、国民党が台湾人を虐殺するという2・28事件がおこった。大陸からやってきた国民党の軍人、官吏は盗賊のように掠奪汚職の限りを尽くし、日本教育を受けた知識人を根絶するかのように28000人を逮捕殺害した。以後蒋介石とともに大陸から台湾に渡ってきた外省人が、蒋介石・蒋経国父子二代にわたる国民党政権下で台湾を支配し、人口の9割を占める台湾生まれの本省人は被支配者の地位におとしめられた。
この事件がふたつの人種を以降敵対関係に置いた。本省人と外省人の「省籍矛盾」、台湾問題の根源はこの事件に起因する。李登輝も「読書会」に参加したことで共産主義者との疑惑をもたれることになった。当時は読書会に参加していただけでも見逃されることはなかったのだが、よほど強運であったのであろう。
ここで、蒋介石について言及しておく。
蒋介石は、1887年に上海に南接する浙江省にうまれた。号は中正である。台湾の空の玄関口である中正機場や、中正大橋とか中正路は蒋介石の号にちなんで命名されたものである。9歳の時に父を亡くした。封建的な田舎における寡婦の生活は悲惨で、蒋介石が青年期に革命運動に走るのは、このような体験があったからだといわれている。早熟利発で10歳までには詩経を読破していた。(保阪、pp.11-12)
日本の陸軍士官学校に留学もした。のち孫文の信任をえて、38歳で黄埔(こうほ)軍官学校校長となり、軍の実権を握り,国民党内の地位を高めた。共産党の周恩来、葉剣英、国民党の汪兆銘、胡漢民、戴季陶、何応欽なども教官であった。1917年、孫文の後継者の地位を固めるべく孫文夫人の妹宋美齢と結婚した。蒋介石にとって3回目の結婚で、これは事実上孫文の後継者となる儀式でもあった。時に、蒋介石41歳、宋美齢27歳であった。蒋介石はのちにクリスチャンになるが、これは宋美齢の影響によるものであった。長男は最初の妻との間に生まれた蒋経国である。同士の軍人と日本人女性の間に生まれた子供を次男にした。蒋緯国である。
蒋介石は、1940年天皇の放送がある1時間も前に以下の声明を中国国民と兵士に向けてよみあげた。

「…。われわれは仇に報復を加えてはならず、敵国の罪なき人民に侮辱を加えてもいけない。彼らが軍閥によって愚弄され、欺かれていたことに同情し、自ら誤りと最悪から脱出するように反省すればいい。もし今まで敵がわれわれに暴力をおこなったからといって、それに暴力で報いたなら、さらに彼らが優越感でわれわれを辱めたように、われわれもまた彼らを辱めたならば、それは怨みをもって怨みに報いることになり、それは永久に続くことになる。それはわれわれ仁義の士の目的とするところではない。…。」
(保阪、pp.234-235)
上の声明に基づき、第2次大戦後、蒋介石総統は、日本に対し次のような「以徳報怨」の政策をとった。
1 天皇制度の維持
2 ソ連による分割の防止
3 中国大陸に残留する日本軍民の迅速送還
4 戦争賠償請求権の放棄
この「雪中送炭」の実行によって、日本は敗戦の瓦礫の中から迅速に復興した。(連戦、p.13)
蒋介石は、台湾を統治するようになっても、日本人将校に国府軍将校の軍事教育を委嘱し、聴講することもあった。1954年米華相互防衛条約がむすばれ、米国側は日本人将校を解雇するように迫った。しかし、蒋介石は次のように言って、拒否したという。「あなた方がわれわれを見捨てたときに、日本人の元将校たちは生命の危険を顧みずにわれわれを助けに来てくれた友人である。私の存命中はいかなることがあっても、彼らを追い返すわけには行かない。」(保阪、p.264)。本省人にとっては、どうであれ、日本人にとっては、何よりも日本の分割を阻止してくれた恩人であることは銘記すべきであろう。

2 外省人


ところで、支配者となった外省人とは戦後国民党と共に台湾に移民した大陸出身者とその子孫のことである。外省人には、2種類ある。統治者としてやってきた特権階級と国民党兵士としてやってきた下層階級である。出身地域は、上海市、浙江省、江蘇省の出身者が多い。とはいえ、各省の出身者を含むため、共通語は北京語である。しかし、すべての者が北京語に堪能であるわけではない。というのは、一口に外省人といっても、旧満州から入台した者もいれば、チベット人、モンゴル人、ウイグル人などの少数民族もいれば、本省人の故郷である福建や広東から入った者もいるからである。
戦前においては、中国では標準語教育がなされていなかったので、各人の言語差は今よりはるかに隔絶していた。筆者の経験でも、もう20年前になるが、原住民は台北で日本語で買い物をしていたが、本省人でも日本語で買い物をする人、上海語を常用する人、たどたどしい北京語しかできない者などを実見した。北京語を話したとしても、外省人の出自が中国大陸全土にまたがるだけに、その北京語も実に様々である。
この「外省人」という言葉は、本省人には、国民党の権威政治の象徴であり、2・28事件で本省人を弾圧殺人した圧制者を意味する。外省人は自分から孤立している場合が少なくない。とくに眷村(けんそん、軍人村)で育った外省人に、危機意識があるためか、その傾向が強い。本省人からは「唐山人」、親しみまたは軽蔑を込めて「阿山」とよばれる。

3 戒厳令


外省人の国民党は秘密警察政治を台湾に持ち込んだ。親子、兄弟、親戚の間でさえ密告を奨励した。強権政治のもとで、台湾人同士は李登輝を迎えるまで互いに疑心暗鬼に陥っていた。国民は、国家安全局傘下の、憲政署、法務部調査局、警備総司令部、憲兵司令部、社会工作委員会から常時監視されていた。これらの組織は党と国家が混然となった党国不分の組織である。筆者はある年、日本在住の各国留学生にアンケートをとったことがある。なかに「尊敬する人」「常に読む雑誌」という項目があったが、10人以上いた台湾学生の答はすべて「孫文」「読者文摘」であった。常時相互監視体制は異国においても、しっかり維持されていた。
1948年5月、「動員乱時期臨時条款」が施行された。これは、共産党の反乱を平定するまでの間の特別条例ともいうべきもので、これにより総統および国会議員の任期が無期限となった。これが、蒋介石、蒋経国のの統治権の盤石の礎となった。この条款が廃止され、国会議員が引退するのは、43年後の1991年である。同5月、蒋介石が総統に就任した。このあと、1949年から世界一長い戒厳令の時代、白色テロ(体制側のテロ)の時代が38年間続く。
戒厳令は、反体制者を法的手続きによらず処罰することができる便利な道具であるので、国民党は38年にもわたってこれを敷きつづけた。戒厳令では、デマ、ストライキ、暴動、金融破壊、財物強奪、学生運動、交通破壊などの関係者を死刑にすることができた。ふつう、戒厳令は、通常は巨大災害などがおこったとき一時的に特定地域にのみ布かれるものである。
この間、李登輝は悶々としながらも、黙々と勉学に励んだ。1949年には結婚し、台湾大学を卒業した。卒業と同時に同大学農学部助手に採用された。大学生活は、京大入学から数えて足かけ7年におよんだ。

4 李登輝、日本、台湾、アメリカを体験


1950年1月、米国は国民党の腐敗を非難し、台湾の帰属は中国の国内問題だとする台湾海峡不介入の声明を出す。これは、中国軍による台湾攻撃を座視することを意味し、台湾の緊迫が高まった。しかし、「幸運にも」朝鮮戦争が勃発し、米国は台湾海峡の中立化を宣言、第七艦隊による台湾海峡の巡航を開始した。
1951年には米国の軍事援助が始まった。これにより、台湾は西側陣営の重要な一員となり、世情は安定に向かった。
1952年、李登輝は政府の第1回留学試験に合格し、米国アイオワ州立大学に単身留学した。
1953年農業修士号を取得し、台湾大学に復職した。この「アメリカ留学を通じて、私には理屈だけを追求する人生には堪えきれなくなっていた。私はまさに信仰を必要としていたのである。」(李登輝、1999、p.34)そのため、『聖書』を隅から隅まで読み尽くし、勉強し尽くした。同時に、『論語』は、生への「否定の契機がないため、「生」への積極的な肯定だけが強くなる危険を孕んだ思想」であることにも気づいていく。
こうして、李登輝は、日本、台湾、アメリカの三つの「異なる文化の中の、異なる教育を一身に受け」た。かれは、述懐している。「わたしは今、こうした経験をさせてくれたものに感謝しなければならないと考えている。その意味で、わたしは幸福な人生をあゆんだのであり、その幸福は台湾のものでもあるべきであろう。」(李登輝、1999、p.18)この環境が李登輝を複眼思考、二枚腰、柔軟性の人に育て上げたのであろう。
李登輝は「アメリカ社会は、移民社会だということもあって、…住みやすく清清しいところが好ましかった」という。台湾も移民社会でアメリカ社会と似ており、いくつもの民族と文化の坩堝であり、無名の人間が大きな成功をしたり、また失敗しても誰も非難しない。台湾は、アメリカ社会に多くを学び、自由で開放的な部分、ダイナミックな活力を維持すべきだという。(李登輝、1999、p.76)また、日本が停滞しているのは、アメリカ、台湾とは逆に、世襲制、官僚主義がはびこり、旧套墨守であるからだという。(李登輝、1999、p.146)
1954年、台湾大学講師在職のまま、恩師の推薦で農林庁技師兼農業経済分析係長に就任した。農業経済学を机上から現場で実践することになる。
1957年、34歳で台湾大学助教授兼任のまま、米国の経済機関である聯合農村復興委員会の技正に就任する。
1961年、妻のすすめでキリスト教に入信する。
1964年、友人の台湾大学教授である彭(ほう)明敏が秘密逮捕された。李登輝は、前日彭明敏と食事をしたという。彭明敏は、1923年に台中に生まれた。関西学院中学部、三高、東大を経て台湾大学政治学科を卒業した。東大から李登輝と同時に台湾大学へ編入学した内地留学生で、台湾大学では李登輝の同期で親友であった。パリ大学で法学博士を取得した。1964年、台湾大学政治学科主任の時、「中華民国は唯一の中国」を標榜していた国民党政府に対して、「国家としての台湾の存在は事実」であることを主張した宣言を発表し逮捕されるが、1970年密かに亡命した。1992年、22年間の亡命生活ののち帰国した。
彭(ほう)明敏は、国民党には「黒金問題」があり、自浄は不可能であると主張する。事実、国民党は、黒(暴力団)と金(大資本家)と癒着しており、莫大な資産、利権を保持しており、これが台湾経済、市場の健全な発展を妨げている。また台湾経済が中国経済にオーバーコミットするのは危険だという。1996年の初の総統選には、民進党から出馬し、李登輝と対決した。

5 李登輝、コーネル大から博士号


1965年6月、米国は台湾経済の順調な発展を見て、経済援助をうち切った。台湾経済はこの年からテイクオフの段階にはいる。政府は、高雄加工輸出区を設立した。高雄加工輸出区はその後台湾経済発展の牽引車となり、開発途上国の手本となる。同9月、李登輝はロックフェラー財団とコーネル大学の奨学金を得て、コーネル大学博士課程に留学する。それまで、李登輝は聯合農村復興委員会につとめたが、芽が出ず鬱々としていたという。コーネル大学へは妻も呼び寄せての留学で、42歳になっていた。
1968年コーネル大学から農学博士号を取得した。ニューヨーク滞在中にキング牧師の暗殺事件が起こり、一つの覚悟をしたといわれている。つまり、この暗殺事件にひるむどころか、台湾の民主化のためならキング牧師の運命を甘受しようという覚悟である。帰国後、聯合農村復興委員会に復職し、台湾大学教授も兼任する。
1969年、コーネル大学へ提出の博士論文で全米最優秀農業経済学会賞を受賞した。これにより李登輝は、マスコミにも知られるようになり、ひいてはこれが政界へ転身の契機となる。
1970年、ニューヨーク訪問中の蒋経国(蒋介石の長男で、最高実力者)狙撃未遂事件がおこった。台湾特務機関は、李登輝の事件との関連を疑い取り調べをおこない、折からの李登輝のタイへの出張を禁じた。しかし、恩師である内政部長(内務大臣)などの奔走で、1971年には蒋経国に農業問題を報告することになり、かえって高い評価を得た。さらには、蒋経国お墨付きの国民党員になり、いよいよ政治家への転身の道を歩むことになる。
ただ、李登輝にとって国民党員になることは、一面うしろめたいことであったはずである。というのは、国民党は「抑圧と暴力の党であり、密告組織であり、友人が何を言った、何をしたと報告しなければならなかった」からである。(黄・金、p.143)そこでは「知情不報」(情報を知っていて、密告しないこと)は罪になった。

6 台湾、国連を脱退


1971年、中国は国連に復帰した。アメリカは1国両議席ということで、中華民国を国連に残そうとした。しかし、蒋介石は断固として「一つの国」論で反対し、台湾は国連を脱退した。台湾は、ここから国際社会で孤立の道を歩むことになる。
1972年2月、ニクソンが中国を訪問した。これは、ソ連を牽制するために、ソ連と厳しい対立関係にあった中国との友好をはかるためであった。日本は米国に追随し、中国と国交正常化をし、台湾とは国交を断絶した。このころ台湾人の日本政府への不信は激しく、訪台中の筆者(桑原)に「田中姓の日本人は台湾には入国させない」とタクシーの運転手にいたるまで怨嗟していた。
6月、国際情勢激変の中、84歳で病弱の蒋介石は、長男の蒋経国を行政院長(首相)に任命し、権力世襲の意向をあきらかにした。蒋経国は組閣に当たって、李登輝を農業問題担当の行政院政務委員(無任所国務大臣)に任命した。これは、人口の9割を占める内省人対策のためになされた人事で、蒋経国の台湾人積極起用第1号である。蒋経国は民主的、開明的なところを見せるために李登輝を選んだといわれる。李登輝はこのとき49歳であった。李登輝は、このあと6年間、聯合農村復興委員会顧問と台湾大学大学院兼任教授とをつとめる。
1973年、インフラの整備と産業の重工業化を目指す「十大建設」が開始された。李登輝は、「十大建設」の農業政策の責任者となった。
1974年12月、高砂族の日本名 中村輝夫が29年ぶりにインドネシアで救出された。しかし生還した中村輝夫をはじめ、台湾人元日本兵や軍属、軍票などに対する国交断絶後の日本政府の対応は冷淡無関心で、主体性がなく、裏切り、詐欺と感じる台湾人が多かった。台湾で戦争に駆り出された軍人は8万、軍属、軍夫は13万名、合計21万名であった。このうち死者は3万人である。これら死者、負傷者は、戦後日本国籍を失ったことを理由に何らの補償も受けられなかった。
その後、戦病死と重傷者にはわずか200万円が支払われたのみである。当時は日本兵であった兄をマニラでなくした李登輝も暗然たる思いであったに違いない。李登輝の兄、日本名岩里武則は今も靖国神社に祀られている。李登輝も、日本人であったから、小学校入学時から日本名、岩里政男を名乗っていた。

7 蒋経国時代のはじまり


1975年4月、蒋介石が逝去し、蒋経国が国民党主席に就任した。蒋経国時代のはじまりである。蒋経国は、1910年生まれで、1925年から12年以上もソ連に留学した。ソ連共産党員の経歴をもち、妻もロシア人である。秘密警察を担当し、反共主義者であるが、国民党を疑似レーニン党に仕上げるのに尽力した。国民党の性格は共産党と同じで、孫文の三民主義が全中国に実現するまで、革命を続ける革命政党であり、また党首に絶対的な権力を集中させていた。
1975年同4月、ベトナム戦争が終結し、台湾には衝撃が走った。というのは、北ベトナムの勝利は、当時の日本知識人には社会主義の勝利と写ったが、日本人には想像しがたいことであるが、台湾人には中国、共産主義によるによる台湾の武力併合と二重写しになったからであった。
ベトナム戦争当時の1964年、筆者(桑原)はベトナムのサイゴン(ホーチミン)に貨物船で行ったが、在住日本人は、ベトコンは北ベトナムだということをすでに断言していた。また、バンコクではタイの英字新聞は、激戦地に北ベトナムは、山岳少数民族を投入していると書き立てていた。北ベトナムには黒タイ、白タイなどのタイ族が居住しており、それらのタイ族も前線の戦闘に立たされていると記していた。1996年ハノイ郊外で訪れた黒タイ一家も、戦争に使役された同族の悲劇を語っていた。あとで知ったことだが、台湾のマスコミも同様の論調だったという。日本のマスコミとの情報格差があまりにも違うので唖然としたことを思い出す。
1976年、中国の文化大革命が終わった。この10年間中国は内乱状態で、台湾には無関心状態であった。台湾にとっては、朝鮮戦争につづいて、文化大革命という隣国の不祥事のおかげで経済発展への道を邁進することができた。ベトナム戦争と同様、中国の文化大革命に対する台湾マスコミの情報や分析も的を獲ていたものが多かった。毛沢東の私生活、愛人問題、また文革について、最近下に見るように出版物があいつぐが、これらの事柄は台湾では、すでに文革(1966-1976)の最中及びその後もに一般雑誌に掲載されており、筆者も台湾で実見した。

李志綏『毛沢東の私生活』文春文庫、1996.
京夫子『毛沢東最後の女』中央公論社、1996.
吉本隆明;辺見庸『夜と女と毛沢東』文芸春秋、1997.
太田清哲『中華帝国病と毛沢東の遺言』鳥影社、1997.
小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』中公新書、1997.
産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』扶桑社、1999.

1977年、中レキ(桑原:漢字に訂正→土+歴)事件がおこった。これは、桃園県長選で国民党が不正を画策し、これに怒った市民が警察署を焼き討ちし、銃で鎮圧しようとした台湾人軍隊に同胞意識を訴え、これを退散させた事件である。国民党の1党独裁白色テロ時代にある台湾兵士にも、台湾人意識が目覚めたことをしめすものであった。ついでながら、ふだんやさしい東南アジアの人たちが時にアモック(amok)状態になることがある。アモックはマレー語起源の英語で、東南アジアでは日常英語である。台湾人も時に激情し暴発するが、この事件は台湾人にも東南アジア的要素が流れていることの例証でもある。

8 李登輝、台北市長に


1978年、蒋経国が総統に就任し、李登輝は行政院政務委員(無任所国務大臣)のまま、台北市長に任命された。市政に専念するために、台湾大学教授と聯合農村復興委員会は辞任した。このとき55歳であった。李登輝は、誠・公・廉・能、つまり、誠実・公正、・清廉・能率をかかげ、市政の改革に取り組んだ。3年半の市政では、芸術、交通、福祉に尽力した。芸術活動の推進のために、ゲーテの『ファウスト』をみずから翻訳したりした。
1979年1月、台湾の唯一の頼みの綱である米国が中国と国交を正常化し、台湾は国際社会で孤立の度を深めていった。5月、李登輝家は長男の結婚式を、名士クラスにはめずらしく、内輪だけで質素におこなった。12月、李登輝は、中央常務委員に選出された。31名からなる中央常務委員は内閣閣僚よりも上位にある。党歴わずか8年での就任は異例のことである。
1979年12月、「美麗島事件」がおこった。反体制誌『美麗島』関係者が高雄で無届けの集会をおこない、反乱罪で一斉逮捕された事件である。『美麗島』関係者は、のちに民進党の中核をなしていく。このうち、黄信介、姚嘉文、施明徳、張俊宏、許信良が民進党主席となる。美麗島事件では、特務のやとったごろつきの挑発と国民党の弾圧によって失敗に帰したが、これ以降国民党は茶番劇を演出できなくされていった。というのは、下層の大衆がめざめ、中産層が政治舞台へ登場し、増加する台湾人党員をかかえた国民党の自己矛盾、アメリカの圧力、特務組織の実態の暴露などが国民党の暴走を許さなくなってなっていたからである。(林、p.259)

9 李登輝、台湾省政府主席に


1980年12月、台湾版シリコンバレー新竹科学工業園区が操業を開始し、台湾はハイテク精密工業の時代にはいった。3月、李登輝の長女が、マレーシア華人医師と、台湾上流階級には珍しく、国際結婚をした。この年には、選挙に出馬するための学歴制限が緩和された。これにより、皮肉にも台湾ヤクザの黒道(暴力団)にも政界参入の道が開かれた。台湾に反政府運動が起こってくると、国民党はこれに対抗するために金(財閥)と黒を利用するようになった。(早田、p.179)黒道は、県議員になると、名声の他に県の警察を監督できるので競って出馬した。
李登輝は、黒金を必要としないので、関係を絶つ努力している。しかし、長年国民党が築いてきた金権、ヤクザ、地方派閥の人間関係は強く、一朝には断ち切れないのが現状である。
1981年12月、李登輝は台湾省政府主席に任命された。58歳であった。この地位は、党主席、行政院長(首相)に次ぐNo.3の要職である。李登輝は政府主席として、農民の生活の改善に努めた。
1982年3月、 李登輝の長男が31歳で病没した。李登輝は、長男の遺児の養育のため、断酒、禁煙を実行に移し、信仰心をいっそう強めた。このころの人生計画は、60歳で退職後山地でキリスト教の伝道をおこなうことであった。しかし、息子の死で、李登輝には李家の後継者がいなくなり、政治的には、そのためにかえって蒋経国から野心のない政治家としての信頼を獲得し、とりたてられていくことになる。これには、行政能力もあるが、誠実寡黙、清廉潔白、無欲無私、政治家臭がなく、権力闘争とも無縁な敬虔なクリスチャンの学者ということも大いにあずかっている。さらに、両者共にかつてマルクス主義を学んだという近親感も関係があるかもしれない。

10 李登輝、副総統に


1984年3月、蒋経国と総統、李登輝が副総統に選出された。病弱な蒋経国が副総統に李登輝を選んだことは、内外を驚かせた。しかし、実状は、李登輝を後継者と考えていたのではなく、蒋経国に忠実な本省人政治家の育成をめざしたもので、いずれは使い捨てのつもりであったといわれる。蒋経国のまわりには大陸出身の総統府秘書長、行政院長、国民党秘書長、参謀総長、国家安全局長がおり、副総統にはなんの力もなかった。
1984年10月、「江南事件」がおこった。江南事件とは、国民党の内幕暴露で有名な台湾系アメリカ人作家江南が、サンフランシスコで国民党系のヤクザに殺害された事件である。江南は蒋経国が校長をしていた党幹部養成所の卒業生で、『蒋経国伝』(同成社、1989)で蒋経国のことを批判的にあらわした。のちに江南殺害の指令を下したのは、蒋経国の次男の蒋孝武であることがわかった。
1985年8月、江南事件の影響もあり、レーガン大統領は国民党に民主化を勧告した。民主化は、レーガンの勧告や米国議会有志議員や下院の委員会などからの国民党への圧力、一人当たりのGNP6000ドル以上の高所得国家になったことの自信、それに伴う権利意識のめばえによる。これ以降、台湾の民主化はさらに進み、民進党の容認(1986年)、戒厳令の解除(1987年)につながっていく。9月、李登輝は1983年の米国訪問、1984年の南ア訪問に続いて、7ヵ国を歴訪した。台湾要人のなかでは李登輝の外国訪問がもっとも多い。李登輝は度重なる外遊により、着実に外交実務と政策能力をたくわえていった。
1985年12月、蒋経国は、すでに蒋政権の命数を読んでいたようで、「蒋家からは後継者をださない」と語った。この公言の背景には長男は身障者で、次男は江南事件でアメリカでお尋ね者になったことも影響していた。後継候補の一人には、当然副総統の李登輝も入ることになるが、当時このことが実現することを確信する識者は誰一人としていなかった。
1986年9月、民進党が戒厳令下で党禁(政党結成の禁止)を無視して結成されるが、政府は黙認せざるをえなかった。実質、党禁の解除となった。

11 戒厳令、解除


1987年7月、38年間続いた世界でもっとも長いといわれた戒厳令が38年ぶりに解除された。かわりに、「動員戡
かん
乱時期国家安全法」が施行された。これは戒厳令を骨抜きにする法律であったが、もはや押し寄せる民主化の波をとめることはできなくなっていた。蒋経国は、「ここはやがて本島人のものになる」「私も台湾人だ」と公言した。
国民は、突然逮捕され、「監獄島」といわれる台東沖合の緑島の監獄に監禁処刑される恐怖からのがれ、やっと「自由」のありがたさを満喫できるようになった。緑島では「130人の無期懲役刑の受刑者のうち、20数人がすでに28年、10人が31年、3人が33年を獄中で過ごしていたのである。」(林、p.10)緑島監獄では本省人と外省人との差別待遇が横行していた。「本省人と外省人とが喧嘩した場合、本省人の方がかならず外省人よりも重い罰を受ける。もしも本省人が喧嘩を売ったとしたら、足かせをされて数ヶ月も隔離監禁されてしまうが、それが外省人ならば足かせは1週間ほどですみ、隔離されることもない。」(林、p.241)
1987年11月、中国旅行が解禁になった。党内の地位実質第3番目の李登輝は、対中国政策の制定にも参画し、中国旅行の解禁にも尽力した。

◇                    ◇                    ◇

第3章  李登輝の台湾

2012/04/27

「中国語」の英訳Mandarinは「満大人」から

Manchu celeb 2.jpg
http://goo.gl/8ReOA
標準中国語のことを俗に北京語とよび、英語ではMandarin(ンダリン)といいます。

Pekineseとはいいません。
Pekineseは犬のチンのことです。

清朝時代(1644年- 1912年)、満洲人のおエライお役人様は、

    「満大人」(マンターレン、man da ren)

とよばれていました。

満洲語は日本語の親戚です。
発音も簡単で、母音は6個、語順も日本語と同様です。

満大人(マンターレン)の話す簡略中国語が、数百年かけて標準中国語になりました。
声調もわずか4種になり、発音も簡単になりました。

中国語の古い形を伝える上海語は声調は7種、広東語は9種あり、発音も複雑です。

Mandarin(ンダリン)は、普通話(プートンホア)、標準中国語、北京官話ともよばれます。

◇                    ◇                    ◇

【発音】

満大人 マンターレン  manV  da\ ren/  満洲人高級官僚
普通話 プートンホア puV tongT hua\  あまねく通じることば

【四声の構造】
http://goo.gl/U9eM9

【桑原式四声表記法】


1声  maT Tの縦棒(|)は無視
2声 ma/
3声   maV
4声 ma\ 
©KUWABARA Masanori
【cf.】 桑原政則「テキストスタイルによる中国語のローマ字表記法およびコンピュータ処理」2000年

2012/04/26

マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー その現状と展開(32,000語)


マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー 

その現状と展開

桑 原 政 則  1998年

目  次

キーワード
略語
はじめに
1. マルチメディアについて
2. マハティール
3. マルチメディア・スーパーコリドー計画の背景
4. MSCとは?
5. MSC企業への10大優遇措置
6. 7つの基幹プロジェクト
7. 次世代インフラストラクチャ
8. サイバー法
9. 国際諮問委員会
10. 設立の経緯
11. 今後の課題と展望

参考文献


キーワード

クアラルンプール サイバージャヤ ビジョン2020 プトラジャヤ マハティール サイバー法 マレーシア マハティール マルチメディア開発公社(MDC) マルチメディア・スーパーコリドー(MSC) クアラルンプール国際空港(KLIA) 

略語

ATM Asynchronous Transfer Mode
EC IT Information Technology  情報技術
KL  Kuala Lumpur ケーエル 
KLCC Kuala Lumpur City Center クアラルンプール・シティセンター
KLIA International Airport クアラルンプール国際空港
MDC Multimedia Development Corporation マルチメディア開発公社
MESDAQ Malaysian Exchange of Securities Dealing and Automated Quotation
MSC Multimedia Super Corridor マルチメディア・スーパーコリドー
R&D Research & Development  研究開発

テクノロジーが歴史や文化を変える

第1章 情報革命の時代

人類は、有史以前の農業革命、300年の産業革命を経て、20世紀末の現在、情報革命のまっただ中にある。産業革命は、工業という新たな価値観を生みだし、わずか300年で、一気に農業社会から近代社会を築き上げた。情報革命は、それより巨大ではるかにスピーディーな変革を起こしつつある。すでに、世界的に、経済の主軸は、物財の生産から情報財の生産、消費、流通に移行している。アメリカの景気が右肩上がりを続けているのは、アメリカの産業の相当部分が、情報社会化したということにある。日本でも、情報関連産業の産出高はすでに自動車関連産業の産出高を上回っており、情報関連産業の従事者のほうがはるかに多い。注)立花 人類は、情報産業という未知の大陸を発見したことによって、今や社会文化経済システムを大きく変容しようとしている。いかにこの巨大でスピーディーな革命に、技術的にばかりでなく、新しい価値観や倫理観を創造して、社会や教育が対応できるかが、国家の命運を左右するようになってきている。
マレーシアは、1971年以来5年ごとに戦略的な開発マスター・プランを策定して、経済成長をはかってきた。このマスタープランが最終的に目指しているのが、「ビジョン2020」である。このビジョンは、1990年から30年かけてマレーシアを先進国入りさせるというもので、1991年にマハティール首相が提唱した。
注)「ビジョン2020」
この「ビジョン2020」(マレーシア語でWawasan 2020、ワワサン ドゥアプル・ドゥアプル)を達成するためには、マレーシアは産業構造を現在の製造業中心から情報とマルチメディアを中心とした知識集約産業へ転換し、情報立国になる必要がある。その核となり、マレーシアが国運をかけて取り組んでいる壮大な計画が、マルチメディア・スーパーコリドー(MSC)計画で、いわばアジア版のシリコンバレーの建設である。注)設立の経緯 一 昨97年夏以来の経済危機にもかかわらず、マレーシアはマハティール首相の強力なリーダーシップのもと、この計画を遂行中である。「ビジョン2020」およびMSC(マルチメディア・スーパーコリドー)計画は、世界の新しい変化、情報革命に積極的に関与せんとするものである。本稿では、「ビジョン2020」を達成するための中核をなすマルチメディア・スーパーコリドー計画について検証するものである。

マルチメディアについて
メディア(media、mediumの複数形)とは、古くは人と心霊を結びつける霊媒のことである。
マルチメディアとは、人間と複数のmedium、つまり文字、音声、画像、映像、などとの交感をおこなう媒体である。メディアの中には、将来的には、触覚、味覚、臭覚、時間感覚なども含まれる。触覚の取り込みの実現性がもっとも高い。注)奥野 具体的には、小型コンピュータの中に、インターネット、イーメール、ラジオ、テレビ、CD、電話、ファックス、ビデオ、ワープロ、新聞、週刊誌、雑誌、本、辞書、百科事典などを一体化し、双方向通信ができるようにした装置であるといえよう。
現在、急速に研究、学習、実用の段階でパソコンからマルチメディアへの転換がおこなわれている。ポスト・パソコンの時代のコンセプトは、「マルチメディア」であるといえよう。

MSC計画の意義
ところで、マルチメディア、インターネットの問題点は、すべてがあまりにもUSセントリックであることである。グローバルにインターネットに接続するためには、代金もアメリカに払わなくてはならず、様々な情報は、アメリカを迂回せざるを得ない。使用言語も英語が主体である。MSC構想は、このアメリカ中心体制の打破するための重要プロジェクトなのである。
脊椎動物では、情報中枢が一点に集中しており、いわば高性能の大型機にすべての端末がぶら下がっているようなものである。脊椎動物の中央集中処理方式では、センター機がダウンしたらシステム全体が機能しなくなる。ところが昆虫には、神経球がいくつもあり(発生学的には、脳もそのひとつ)それらは、線で結ばれていない。昆虫の分散処理方式では、1台が破壊されても影響はすくない。マルチメディアやネットワークには、昆虫型が適している。脱近代の今日では、中枢が不確かで混沌としていることが、かえって強みになる。情報も不定形で、曖昧な質が価値になる。
地球上が単色の情報文化でおおわれたら、その文化に危機的な状況が生じた場合、全文明が滅亡のおそれがある。動物のゲノム(遺伝子群)と同様、文化の遺伝子ミームも様々な可能性を保有しておいた方がよいといえよう。注)おくの 105 今後は、非中央集権的なエスニック・メディアの拡散が、virtual global villageの文化をより多様に豊かにするはずである。世界中がアメリカ食を強いられるのには、耐えられないはずである。アメリカは、頑としてヤード、フィート、ポンド、温度の華氏などの自国にしか通じない制度を守り通している。マレーシアにも、東南アジアにも、独自のマルチメディアがあった方が地球の文明は豊かで、柔軟になる。

地方分権も情報通信の発達で
都市集中型、中央集権も遠隔教育、テレメディスンで解決


テクノロジーが時代を変える。
15世紀の活版印刷、18世紀の蒸気機関、20世紀の自動車は、人々の常識、観念を変え文化を変容させてきた。通信衛星を介してのテレビ映像が、ベルリンの壁を崩し、ソビエトを解体に導いた。冷戦を終結させたのは、革命や戦争、イデオロギーや政治ではなく、メディア・テクノロジーによってであった。近未来には、予測できないほどマルチメディアが世の常識を変えるであろうといわれている。

情報通信産業がこれからの経済のエンジンになる。


以上みてきたように、マレーシアの今日の発展、「ビジョン2020」、MSC計画は、すべてマハティール首相の主導のもとにおこなわれた。そこで、マハティール首相の経歴、思想、哲学について概括する。注)マハティールの著書

マレーシアの父マハティール
マレーシアは、人口2000万人で、うち1割の200万人が首都クアラルンプールに住む。多民族国家で、人種構成は、マレー系・原住民系6割,中国系3割,インド系1割となっている。

内政:マレー系,中国系などの人種間の融和、マレー系住民の経済的引き上げ、イスラム急進派対策、首都機能分散計画

外交:ASEAN域内の協力。イスラム諸国との連帯重視。環太平洋諸国との協力。大国との等距離外交。欧米の価値観やルールの押しつけに批判的。

経済:80年代後半より電子機器、ゴム関連加工業などで工業国への道を歩んでいる。長期計画「ビジョン2020」で2020年の先進国入りを目指す。  第7次5ヶ年計画(1996-2000)では、GDPの成長率8%、労働集約型から技能・資本集約型への転換、、マレー系企業の増大、巨大ダム・発電施設の建設をめざす。



マレーシアが1957年に独立したとき、この国は民族問題を解決できず、民族抗争を続け、貧困のままで終わるだろうと識者は思った。「40年後マレーシアは誰もがうらやむほどの経済成長を遂げ、民族の融和も果たした」注)The way forward urahyousi

Datuk 国が与える第三の位。なお、各州の元首から与えられる州の最高位もDatukまたはDat
o'という。また、州によっては最高位がDatuk Seri or Dato' Seriというところもある。マハティール首相の場合はそれだと思います。


G15
マハティール首相の発案
G15とは、非同盟諸国会議に属する主要途上国による定期会議で、マハティールの主導ではじまった。途上国が南南協力を推進し、先進国に対して統一的な立場をとり、発言力を強化することが目的である。1990年に第1回会議がクアラルンプールで開催された。1997年にも、クアラルンプールで開催され、通貨取引の規制を正式議題とし、各国の首脳たちはマハティール首相を強く支持し、IMFに対する規制策提案をおこなった。



冷戦後の世界の対立は、イデオロギーから文化の対立に移った。

マハティールの欧米観
・キリスト教徒たちは物質的な価値観によって、精神的な価値観を破壊してしまった。欧米文明を受け入れないものは、封じ込める。欧米的価値観だけが世界の中心であるとし、アジア的なものは、古いもの、田舎臭いもの、前近代的のもの、封建的なものであるとして排除する。
・世界は、過去何百年もユダヤ・キリスト教の一元支配下にあった。これを文化的多極主義に変えなくてはいけない。
・一つのイデオロギー、一つの体制ですべてが解決するという普遍主義、欧米中心主義は限界に来ている。
・資本主義も社会主義も唯物主義を土台にしており、精神的なものが欠落している。
・欧米の道徳心は低下し、倫理観も荒廃している。個人の権利のもとに社会を損なっている。
欧米の価値観は快楽主義的物質至上主義である。
・現代は欲望肥大と自然破壊を無限に広げている。
欧米流人権、個人主義は多くの弊害を生んでいる。
・グローバル化と規制緩和は、アメリカなどの先進国のためにしかならない。

IMF、規制緩和
市場経済万能主義を拒否しよう。
シカゴ学派が主導する市場経済万能の新古典派経済学アプローチに代わる第三の道を探さねばならない。
・市場原理を至上のものと考え、自由放任、自由競争を礼賛するアメリカ型経済モデルは、シカゴ学派を中心とする新古典派経済学の信奉者たちによって形成されている。
IMFは、事実上米国の機関で、米国の利益のために働いている。
アジア危機は米国によって仕組まれた乗っ取り劇である。ジョージ・ソロスみたいな投資家集団が短期資金をかざして、切り込み隊長として乗り込んでくる。現地のカネはバブル状態になる。頃合いを見計らって、資本を引き上げる。今度は、ムーディーズみたいな格付け機関がきてかく乱する。最後にはIMFが進駐軍よろしく一国の管理にやってくる。その後、日本企業が引き上げた後米国の企業が進出する。米国はアジアに日本に主導権をもたせたくない。注)石原

注)タイの英字新聞IMF批判
タイの英字新聞に読者からの概略次のような投書が掲載された。「IMFは、消防夫ではなく放火犯である。IMFの歴史は失敗の歴史である。1965年から95年にかけてIMFが融資をした89カ国のうち、48カ国はno better offであり、32カ国は以前より貧しくなったいる。今やIMFは国際的な脅威となっている。IMFは、閉鎖的、秘密主義的で無能である。メキシコやアジアの経済危機を予見できず、危機が起こったときには適切な対処もできなかった。」
Nation, 1998-7-24
・「われわれは、アジア社会は自らの発展と前進を目指すに当たって、社会正義と公正さを常に心がける必要があると考える。……完全な市場システム経済が採用された場合には、無法の”ジャングル”が出現するような状態であってはならない。われわれは、極力、アジアの伝統的な村落社会に見られる社会的慣習を尊重し、これに沿って生きる行き方を維持したいと考える。常に人間の顔をもった資本主義を機能させる必要があるわけである」アジア復権の・

注)なぜ、アメリカはマハティールを敵対視するか?
By portalasia
オピニオンリーダーとしてアメリカの覇権主義への対抗策を講じる必要性をアジア各国に説き続けてきた。
EAEC( East Asia Economic Caucus) 構想など、アジア新機軸の確立を主張。
アジア的民主主義の正当性を国際世論に訴え続けてきた。
拡大アセアンをはじめ、アジア諸国の冷戦後の新秩序づくりを主張してきた。

アジア観
・合意と集団の医師を重視するマレーシア型民主主義が、アジア流発展路線であろう。
・アジアは、他を犠牲にしない反映をめざすべきである。欧米の反映は非欧米の犠牲の上になりたったものである。
・ルック・イーストとイスラム重視がマレーシアの路線である。
・社会が個人に優先する社会、強靱な家族制度が福祉の担い手となる社会を建設しよう。
「アジア主義」とは、日本中心主義ではなく、東南アジアの土着文化、イスラム文化、中国文化、インド文化を尊重することから始めねばならない。
近代化は、アジアの価値観を復興させるための手段。
注)日本観 日露戦争、高度成長はアジア人に大きな自身を与えた。日本には、アジアの自身の源泉であってほしい。

注)マハティール首相の訪日
マハティール首相は頻繁に日本を訪問しております。下の通りである。息子と娘を
1983年1月
1983年11月
1984年10月
1985年7月
1986年10月
1988年3月
1988年10月
1990年4月
1991年11月
1993年5月
1994年10月
1995年5月
1995年11月
1996年2月
1996年5月
1997年?月
イスラム
強い宗教的、精神的価値を持った路線。。
自由も博愛も平等もイスラムの教えに入っている。
・ルック・イーストとイスラム重視がマレーシアの路線
注)強いイスラム信仰を有する。イスラム大学やイスラム銀行を設立した。
近代化


注) 『アジア復権の希望 マハティール』
マレーにも過去の誇りがある。マラッカ王国は、1400年代には既に中国、インド、ペルシャ、アラビアなどから商人が集まる世界の中心地であった。

マハティールの自然観は?
ところで、マハティールの@ 近代思想の方向を定めたのはデカルトの機械論的世界観とベーコンの自然支配的世界観である。人間と自然を対立させる二元論で、人間は自然を奴隷のように支配することができるという考えである。デカルトの機械論的世界観とベーコンの自然支配的世界観が結びついて、公害、環境破壊、資源枯渇を生み出し、自然は、人間の暴力、搾取に耐えかねて急速に崩壊している。
デカルト、ベーコンの人間至上主義は、キリスト教やギリシャ哲学といった西洋文明の本質に根ざしている。バイブルでは、人間には精神があり、他の動物を支配する権利がある、とされている。また、プラトンなどのギリシャ哲学者も人間は精神を有する故に、万物の長である、と考えた。
世界は、今までの人間至上主義的な近代哲学ではどうにもならないところまできている。人間のことだけを考えていた倫理学も変わらねばならず、経済学も、環境問題を真剣に取り入れてものでなければならない。
マハティールの深く信奉するイスラム教も、一神教で人間至上主義的なところがある。上の呼びかけにマハティールは、どう答えるか、尋ねてみたいものである。注)草原の思想・森の哲学


マレーシアの通信事業史

1965年  ・シンガポールのC&Wを接収し海外通信を国営化
1987年   ・JTM(電気通信総局)の事業部門を民営化、STM(Syarikat Telekom Malaysia)として発足、公衆通信を一元的に運営。JTMは郵電省の内部機構として存続
1991年  ・マハティール首相、「ビジョン2020」を発表
 ・マレーシア電気通信会社(STM)、テレコムマレーシア(TM)と改称
1994年  ・マハティール首相、NPT (: National Telecommunications Policy 電気通信に関する国家政策)を発表
          ・テレコムマレーシア(TM)、NII(Network Information Infrastructure)計画を発表
1995年  ・マハティール首相、マルチメディア・スーパーコリドー(MSC)計画を発表

マハティールは、1991年に「ビジョン2020」(先進国入り宣言)を発表した。「ビジョン2020」の達成手段が、1994年のNPT(電気通信に関する国家政策)である。NPTは、2020年を目標に高度情報化社会、世界の電気通信のハブとなることを目指すもので、具体的には、電気通信インフラの整備、通信機器製造企業の国際化、僻地インフラ改善、各種規制の改廃、競争の促進などである。
NPTにより、通信市場における競争が促進され、すべての電気通信分野で新規参入ラッシュが始まり、現在までのところ、国内電話で5社、国際電話で5社、移動体通信(セルラー電話、PCNサービス)で8社が免許を得ている。
1994年のNII(Network Information Infrastructure)は、2000年までに広域ISDNによりLANを利用可能にする計画で、まず幹線65,400Kmの光ファイバー化を進め、最終的には、すべての端末をATMネットワークで結び、情報ハイウェーを築き上げることを目指している。
1995年のマルチメディア・スーパーコリドー(MSC)計画は、首都クアラルンプール、サイバー都市サイバージャヤ、新首都プトラジャヤ、クアラルンプール新国際空港を結ぶ地域を「マルチメディア・スーパーコリドー(MSC:Multimedia Super Corridor)」と名付け、サイバージャヤにマルチメディア関連企業の地域本社やR&D部門および最新のハイテク産業などを誘致して、アジアの情報通信ハブを目指すものである。政府は、法人税の免除などの優遇措置を用意して、世界レベルの企業の誘致をはかっている。
最大手のテレコムマレーシアは、電気通信バックボーン回線の独占提供権を取得、MSCのインフラ構築をおこなう。日本からは、NTTがコンピューター通信専用網の構築をおこなう。

テレコムマレーシアの主な海外進出状況
テレコムマレーシア(政府出資70%)は、国内ばかりでなく、海外通信市場への積極的に進出している。次にその進出状況をあげる。

1994年:
インドで、地元のウシャマーティンとGSMセルラー事業の合弁会社「ウシャマーティンテレコム」を設立。50%の出資
スリランカで、地元のサンパワーシステムズとGSMセルラー事業の合弁会社「MTNネットワークを設立。80%の出資
マラウイで、マラウイ郵電局と共同でGSMセルラー・データ通信事業を行う免許を取得
ギニアで、ギニア電気通信会社(Sotelgui)の株式60%を取得
1995年:
タイで、地元のTOTと電気通信サービス・インフラの共同開発についての覚覚え書きを締結
インドネシアで、PTテレコムとカリマンタンの電話網整備プロジェクトの共同運営を契約
1996年:
ガーナで、テレコムマレーシアを中核とするコンソーシアムが、ガーナテレコムの株式の30%を取得
1997:
タイで、通信会社サマートグループの株式20%を取得することに合意。同グループの子会社でディジタルフォン社(DPC)の株式33.3%も買収。
南アフリカで、テレコムマレーシアのコンソーシアム等が、南アフリカテレコムの株式30%を取得。

マルチメディア・スーパーコリドー計画の背景
マルチメディア・スーパーコリドー計画が立案された背景には、次のような要因が考えられる。

・マレーシアの製造業中心経済が頭打ちになったこと
マレーシアは、1950年から60年代においては、ゴム、パーム油、スズなどの一次産品輸出国にすぎなかった。工業立国を歩み始めたのは70年代からであった。1980年代後半には、外資規制の緩和策と円高により日本の電子・家電メーカーなどをはじめとする外国企業、工場の大々的誘致に成功し、成長著しい東アジア諸国の中でも特筆されるような安定した工業化社会を一気に築き上げた。
しかし、最近はインドネシア、ベトナムなどのアセアン諸国や中国の追い上げ、また同様な政策をとる国も増え、さらに日本からの直接投資も94年度からは減少傾向にあり、製造業中心経済は転機を迎えている。そこでめざしたのが、産業構造を労働集約型製造業中心経済から情報通信産業を中心とした知識集約型への脱皮をはかろうというわけである。

・MSCがアセアンの情報産業上の首都になること
MSC計画の背景には、アセアン10ヵ国が一大経済圏へ発展しつつあることもある。アセアンは、67年の発足当初は防共協定的色彩が強かったが、現在は経済的側面での協力を深めている。たとえば、2003年までにアセアン域内の貿易品目関税は、5%以下になる。マレーシアの国家戦略は、時代の趨勢が工業社会から情報社会への転換であることをいち早くとらえ、アジア各地に散財している多国籍企業の地域統括ハブ、つまりアセアン経済圏のハイテクビジネスの首都になろうとするものである。こうすれば、賃金水準の低いベトナムやミャンマーの工場をここから管理、運営したりすることもできるわけである。

・アジアの復権をはかること
MSC計画の長期的な目的、またマハティールの真意は、マレーシア経済、東南アジア経済の地位向上をバネに、欧米先進国支配の国際秩序を修正し、マレーシア人に自信と尊厳を与え、アジア全体の復権をめざすことである。デジタル新時代へ向け、マレーシアが先手を打つのは、「欧米だけがサイバー空間を独占する恐れがあるからだであり、サイバー植民地主義を許してはならない」注)マハティール、97年4月訪日の講演)からである。

マルチメディア・スーパーコリドーとは?
マルチメディア・スーパーコリドー(MSC 、Multimedia Super Corridor)は、マレーシア語で ”Koridor Raya Multimedia MSC”、中国語で「多媒体超級走廊」)といい、1996年8月に全体構想が発表された。「ビジョン2020」達成のための核心となるこのMSCとはいかなるものであるかを次にみていきたい。
一口で言うと、マルチメディア・スーパーコリドー計画とは、クアラルンプルとその南のクアラルンプール空港を結んだ卵形の回廊をマルチメディア・スーパーコリドーと名付け、卵の黄身の左半分をサイバー都市、右半分を新首都にし、マレーシアを情報化時代の世界の旗手にせんとするものである。この巨大なコリドーに、高速・大容量の光通信ケーブル網(最大10メガバイト/秒)を施設して、政策、法律を完備し、世界レベルのハイテク先端企業500社を誘致し、世界のマルチメディア拠点にしようというのがMSC計画である。
このプロジェクトは、マレーシア政府が、国運をかけて取り組んでいる国家プロジェクトであり、その核になるのがサイバー都市サイバージャヤで、ここに情報通信インフラを整備した情報通信産業の集積地を作ろうという計画である。

MSCは、クアラルンプール(KL)から南へ縦50キロメートル、横15キロメートルのコリドー(回廊)であり、面積は750平方キロ、シンガポールの3倍ほどもある。北端は、クアラルンプールのインテリジェント地区KLCC(Kuala Lumpur City Center クアラルンプール・シティセンター)に始まる。KLCCは、KLタワーや、世界一のツインタワーなどの世界最高層ビルが建ち並ぶインテリジェント地区である。
このコリドーには、世界初の二つのスマート・シティが建設中である。一つはMSCの中心部に建設中のマルチメディア産業、R&Dセンター、マルチメディア大学が集合するインテリジェント都市サイバージャヤ(Cyberjaya)である。
サイバージャヤの東隣にはマレーシアの新行政首都プトラジャヤ(Putrajaya)がある。ここでは電子政府の概念が採用される。本1998年中には、首相府がプトラジャヤに移転することとなっている。
クアラルンプールからは現在の南北ハイウエーから新ハイウエーがプトラジャヤ、 サイバージャヤ、クアラルンプール国際空港(KLIA )まで接続する。また、クアラルンプールからKLIAまでの新しい鉄道も建設される。

以下、MSCの環境について見ていきたい。

MSCの環境
MSCは、企業地区、官庁地区、商業地区、住宅地区、娯楽地区、ガーデンコリドーに区画されたマルチメディア・コミュニティである。各地区間は、高速道路網、鉄道網、空港で接続される。

サイバージャヤ
サイバージャヤは、「未来のマルチメディア都市」で、東隣には新首都プトラジャヤが位置し、プトラジャヤとツインシティーをなす。いずれ、世界のマルチメディアの実験場となり、2020年までには世界の先端ハイテク企業500社が操業し、アジア太平洋地域のハブになる予定である。

ここでは、マルチメディア関連の高度な技術を扱う研究開発拠点とリゾート・アメニティ施設群が同居する。予定人口24万で、面積は7000ヘクタールである。最新の電気通信インフラ、テレメディスン・センター、自然と調和をめざした広場・公園、インターナショナルスクール、マルチメディア大学などの世界1級の都市インフラを軸に構成される。また、生態系との調和を重んじた世界水準の無公害都市を目指している。注)サイバージャヤ
サイバージャヤの企業地区は、世界初のIT、マルチメディア産業専用開発地域である。最小区画単位でも、1ヘクタールある。商業地区は、緑に囲まれたトロピカル・ガーデンで、ショッピング・モール、広場からなる。住宅地区は、1ヘクタール20棟におさえられ、丘の上や湖面の邸宅、コンドミニアムなどバラエティに富む6つの居住区、数多くの緑地で構成される。公共・レクリエーション地区は、サイバーパーク、都市の森、熱帯公園、プロムナ-ド、都市の森、熱帯公園、マルチメディア・テーマパーク、テレメディスン・センターからなる。
交通の便にも恵まれ、車でクアラルンプールから20分、クアラルンプール空港から30分、主要港のクラン港からは1時間のところに位置する。市の北、西、南を高速道路が走る。
サイバージャヤの「ジャヤ」とは、サンスクリット語で「勝利」のことで、サイバージャヤとは「勝利の電脳空間」という意味である。MSCの成功への熱い気持をこめてなづけられたのであろう。
1997年5月に内外の関係者1000人の列席のもとに、盛大に起工式がおこなわれた。注)サイバージャヤ

MDC(マルチメディア開発公社)

サイバージャヤにあって、MSCの開発と運営にあたるのが、MDC(Multimedia Development Corporation、マルチメディア開発公社)である。MDCは、MSCの総元締めというわけである。注)MDC 1996年6月、政府の出資、支援のもとに設立された。MDCの目的は、「世界をリードする環境を作り」「世界レベルの先端企業を誘致し」「強い権限のもと簡便、効率的な運営をおこなう」ことである。
企業側としては、MSCの地位を得るためには次の3条件を満足させなければならない。
マルチメディア製品、サービスの開発者又はそれらを広範囲に用いる使用者であること。知識をもった技術者をかなり多数雇用すること。MSCの発展とマレーシア経済にどのように技術移転するか又は寄与するかを明確化すること、である。
1998年7月23日現在で、「147社がMSCステータスを認められた。そのうち、22社はマレーシア企業である」とのことである。注)モギー エネルギー・通信郵政大臣、Sun, 1998-7-23

マルチメディア大学
サイバージャヤの中に設置されるマルチメディア関連科目をメジャーとする世界で初めての大学で、マルチメディア、IT、次世代テクノロジーに関する高等教育や研究をおこなう。米国スタンフォード大学の周辺にシリコンバレーが形成されたように、マレーシアにも産学共同によるハイテク産業育成地区を設けようというものである。シリコンバレーと違うところは、シリコンバレーが自生的であったのに対して、サイバージャヤは計画的であることである。
学部レベルでは、次の5学科から構成される。Computer Engineering、Electical Engineering、Electronics Engineering、Multimedia Engineering、 Telecommunications Engineering
98年9月に第1期生2000人が入学する予定である。注)マルチメディア大学 英語名は、Multimedia Universityであるが、マレーシア名はUniversiti Telekom(電気通信大学)である。

新首都プトラジャヤ
新行政首都プトラジャヤは、予定人口25万の先端技術を駆使した総面積の3分の1は緑が占めるというインテリジェントなガーデンシティーで、世界初の電子政府となる。ペーパーレス行政を目指し、国民と企業に効率的なオンラインサービスを提供する。プトラジャヤ内のオフィスと家庭は、光ケーブルを通して各省庁、商業、文化、スポーツ、レクリエーション施設施設につながり、Eビジネスも可能である。
本1998年中には、首相府がプトラジャヤに移転する。その後クアラルンプールに点在する政府省庁が相次いで移転し、7000人の公務員や家族を含めた大規模な引越しがおこなわれる。プトラジャヤの建設によって、現在の首都KLは、商業都市に特化されることになる。
プトラジャヤとは、サンスクリット語で「勝利の子」を意味する。マレー人優遇政策が「ブミ・プトラ(大地の子→地生えの人間→マレー人)政策」とよばれることを勘案すると、ここでの「子」は、「マレーシア人」をさしているのではなかろうか。

クアラルンプール・シティセンター(KLCC)
クアラルンプール・シティセンター(KLCC)は、MSCの北端部を担う。ここはクアラルンプールの中心に位置するインテリジェントな商業、レクリエーション・娯楽、ショッピングセンター地区である。広大な公園の中に、世界一のペトロナス・ツインタワー・ビルをはじめとするインテリジェントビルが立ち並ぶ。インフラには、最先端の情報通信装備が備えられる。

クアラルンプール国際空港
クアラルンプール国際空港(KLIA、 Kuala Lumpur International Airport)は、MSCの南端に位置する。本98年6月に開港した。KLIAの特徴は、規模の大きいこととハイテクを駆使していることである。総面積は1万ヘクタールで、成田空港の10倍の広さがある。最終的には、4000メートルの滑走路4本(成田は2本)を有する世界最大級の巨大空港となる。年間2500万人の利用者を見込んでいる。 。
自然とハイテクの共生のコンセプトが取り入れられており、森の中の空港といった感じである。ガラス張りの壁面からは、緑豊かな自然を臨むことができる。注)空港
このKLIAは、アジア地域のハブ空港になるべく突貫工事で建設された。開港を急いだのは、1998年9月クアラルンプールで開催のコモンウェルス・ゲームにあわせることが国家目標であったからである。注)コモンウェルス・ゲーム
現在アジア各国では、空港建設計画が進行中である。

KLIAは他国に先行する形で、ハブの座獲得へ第1歩を踏み出したといえよう。世界の国際旅客需要は、21世紀初頭には8億人になり、その半分がアジアと推定されている。「ビジョン2020」を実現する上でも、また国家収入の第2を占める観光収入を得るためにも、ハブの座を確保する経済効果はきわめて大である。

MSC企業への10大優遇措置
MSC内の企業には、MSCステータス(資格)が与えられ、法人税・所得税の減免、外国人技術者の雇用の自由、100%外資の現地法人の認可、インターネットの無検閲など10項目の優遇措置を提供される。この優遇措置は、マレーシア政府が有資格企業の育成、発展に強くコミットしていく決意を表すものといえよう。次に、この10大優遇措置を掲げる。
1 世界クラスの物理面、情報面でのインフラを提供する。
2 知識労働者の雇用には、外国人であっても、制限を設けない。
3 MSC企業の資本は、100%外資でもよい。
4 MSCでのインフラ整備のため、資本やファンドを世界のどこからでも調達してよい。
5 最長10年間の所得税免除、投資税額やマルチメディア機器輸入関税の免除を実施する。
6 知的所有権、サイバー法において、アセアンのリーダーとなる。
7 インターネットの検閲は行わない。
8 電気通信料金は、世界的に競争できるように(低額に)設定する。
9 MSCを地域ハブ(アセアンの中核)にする企業には、MSCの主要インフラへの契約権を優先的にあたえる。
10 強力な執行機関MDCを設置し、ワンストップ・ショップ(窓口一本化)を展開する。

7つの基幹プロジェクト
MSCには、7つの基幹プロジェクト(Seven Flagship Applications)があり、「マルチメディア開発推進型プロジェクト」と「マルチメディア環境提供型プロジェクト」に2分類される。注)基幹プロジェクト
「マルチメディア開発推進型プロジェクト」とは、マレーシアの社会システムや技術基盤をマルチメディア技術を駆使して変革しようとするもので、参加企業に具体的なビジネスチャンスを提供するものである。「電子政府」「スマートカード」「スマートスクール」「テレメディスン」がこれにあたる。これらのアプリケーションが、1カ所に集められたのは世界ではじめてのことである。
「マルチメディア環境提供型プロジェクト」とは、マルチメディア技術の開発者、利用者に最適なビジネス環境(マルチメディアの理想郷)をつくりだすためのプロジェクトで、「研究開発拠点群の形成」「国際的生産網ハブの形成」「グローバル・マーケティングの実行」のことである。以下これについて概述する。

1 電子政府(ペーパーレス化)
電子政府のコンセプトは、マレーシアの社会構造を根本的に変えようとするもので、行政をペーパーレス化するものである。ペーパーレス・オフィス化により政府内部間、政府と国民、政府と企業との関係は大幅に勘弁、効率化される。

2 スマートカード(多目的カード)
スマートカードは、国民ID、運転免許証、入国管理証、ヘルスカード、キャッシュカード、クレジットカード、預金カード、社員共済、投票登録、航空予約、学生カードなどを統合した世界で初めての多目的カードである。この1枚のカードで、日常の買い物から税金、年金などの支払い・受取りまでができるようになる。

3 スマートスクール(遠隔教育)
スマートスクールは、衛星通信や光ファイバーを利用して、キャンパス間や学校間で遠隔授業を双方向でおこなおうとするもので、マレーシアが製造業中心経済から知識産業中心経済へ移行するための鼎となるものである。授業方法、授業管理、外部連絡、学校間の連絡を、マルチメディア化することにより、教育制度そのものを改革し、情報時代を担える人材を育成することを目的とする。2010年までには、マレーシアのすべての小学校7000校と中学校1500校をオンライン化する。

カリキュラムは、思考、言語、価値に重点が置かれ、自分のペースで学習し、自らが方向決定できるようなものとする。教師は「知識の提供者」から「学習の援助者」になるように、ハイテクとハイタッチ(人間的な温かみ)を備えた存在となるようにする。注)大前 デジタル・ウォーズ -日本の転機- NHK出版編 「マレーシアのスーパーコリドー計画」 大前研一) 教科書は、マレー語、英語、科学、数学が全面刷新される。

4 テレメディスン:遠隔医療
テレメディスンは、国内の医療施設をネットワーク化し、遠隔診療をはじめ医療情報、病気予防、生涯健康計画といったサービスを提供する。健康管理意識を高めることを最終目的とする。家庭から直接アクセスできるので、迅速で低コスト、一度に大量の対応ができる。
注)マハティールは医者

5 R&D(研究開発)群の形成
R&D(Research & Development、研究開発)群は、世界の最先端企業、研究機関、大学が連携を深め、次世代のマルチメディア技術を開発するために形成される。そのためには、最先端マルチメディア企業の研究開発センター、外国企業・大学と国内企業の共同研究開発センター、国内研究開発センターなどを35カ所以上設立する。
大学に関しては、マルチメディア大学は、MSC内の研究開発センターに人材を補給するために設立され、1998年末には運営が開始される。MSC周辺には、プトラ・マレーシア大学、マレーシア国民大学、MARA工科大学、マラヤ大学、テナガ国民大学、テレコム・マレーシア大学、マレーシア工科大学マレーシア科学技術大学がある。
その他の研究開発施設としては、MIMOS (The Malaysian Institute of Microelectronics Systems、マレーシア電子情報システム研究所)、TPM (The Technology Park Malaysia、マレーシア技術パーク)がある。

6 国際的生産網ハブの形成
国際的生産通信網拠点とは、MSC内に設けたハイテクオペレーション製造業や製造サービスのハブのことで、ここから国内外の事業拠点を遠隔操作で一元管理し、R&D、設計、生産、流通をおこなおうとするものである。マレーシアの最終的なねらいは、アジア地域の企業の活動拠点をMSCに誘致することにあるある。

7 グローバル・マーケティングの実行
グローバル・マーケティングとは、MSCを拠点とするテレマーケティング、オンライン情報サービス、Eビジネス、デジタル放送のことである。マルチメディアによるグローバル・マーケティングが、マレーシアで有利なのは、次の理由による。
デジタル署名をはじめとするサイバー法が整備されていること。
MSC内の衛星通信を利用すれば、アジア太平洋の2500万にアクセスできること。
英語、マレー語(マレーシア語、インドネシア語)、中国語、インド語(タミール語)に精通するマルチリンガルな人材を低コストで利用できること。

MSCのインフラストラクチャ
MSCは、以下のようなデジタル化した国際的水準の大容量次世代通信インフラストラクチャを、20億ドルを費やして備える。これにより、世界各地と情報、製品、サービスを交換することができる。

光ファイバー通信網
MSC内に光ファイバー通信網を埋設する。光ファイバーは、最速10ギガビット/秒の伝送速度を有する。バーチャル役員会議、遠隔操業、マルチメディアインターネットの生放送などに対応できる。

大容量直接光ファイバー通信
アセアン、日本、米国、欧州など世界中の目的地と接続し、製品やサービスの自由かつ迅速な流れを保証する。

オープン・スタンダード、高速スイッチング、マルチプロトコル
これらは、マルチメディアプリケーションの開発と実行にパワーと柔軟性を与え、ATMやSDHなどの新技術への移行を円滑に進める。

地域衛星通信サービス
アジア太平洋の広範囲な地域に電気通信、放送、データサービスをおこなう。さらにVSAT(Very Small Aperture Terminal 超小型衛星通信ターミナル)利用の音声・データ・ビデオの統合サービスもおこなう。

無線通信その他の付加価値サービス
MSC内では、携帯電話、データ通信サービス、インターネット・ゲートウェイ・サービス、CATVが利用できる。

統合管理システムの構築
ネットワーク全体の信頼性をたかめるために統合管理システムを構築する。

迅速な対応
電話の設置は24時間以内、ATM回線は、5日以内に設置される。

国際競争力のある通信料金
基本ネットワークサービスについては経済的な定額料金制、付加価値ネットワークサービスについては、競争力のある料金を設定する。

サイバー法
サイバー法は、社会、商取引、技術など考えられるすべての分野について、企業の利益や市民の権利を保護するために制定された。これらの法は、投資家に安心感をあたえ、投資家を保護する意味合いが強い。注)本

デジタル署名法
Eビジネス(Electronic Commerce、EC、電子商取引)を円滑におこなうため、デジタル契約、デジタル署名、サイバー決済、知的所有権保護を法的に認知する。これにより、デジタル署名は、手書きの署名と法的に同等となり、Eビジネス(電子商取引)や裁判にも電子署名が広範に用いられるようになる。

コンピュータ犯罪法
サイバー詐欺、無許可のアクセス、通信妨害、コンピュータの不正使用を対象とする。法執行機関は、職域の範囲内で、通信傍受権を特別に付与される。マレーシア警察庁にコンピュータ犯罪部門を設置する。

著作権改正法
マルチメディア作品の著作権を保護したり、デジタル送信の法的ステータス、マルチメディア作品の利用の仕方を規定する。世界知的所有権機関(WIPO)の最新の条約を援用して制定された。

テレメディスン(遠隔医療)法
遠隔医療資格者の認定や、誤診などに対する法的義務を規定する。

電子政府法
マルチメディアを活用した公共サービス、市民の秘密情報の保護、市民の情報の政府との共有を対象とする。電子政府法は、MSC計画の基幹プロジェクトの一つである。

マルチメディア・通信法
既存の電気通信産業の効率化をはかり、新たなIT産業やマルチメディア・サービス産業の発展を目的とする。現行の電気通信法・放送法を簡素化するとともに、双方向オンラインサービスに関する規定を設ける。

なお、」上のサイバー法を作成したり、調停したりするためにアセアン サイバー法研究所兼サイバー調停機関を設置する。この機関は、将来のサイバー世界を射程において、サイバー法を作成するセンターである。またアセアン諸国と協力し、域内サイバー法センターになるよう計画されている。

国際諮問委員会
国際諮問委員会は、世界先端企業のトップからなる強力な委員会で、世界最良のマルチメディア環境を実現するための戦略的課題を提供したり、MSCのビジネスが成立しうるような計画を策定したりする。議長は、マハティール首相が直々につとめる。メンバーは、34名より構成されハイテク業界の首脳人も名前を連ねている。注)外国人 日本人委員も多く8名を数える。注)日本人委員
MSCには、日本企業も積極的にかかわっている。筆頭はNTTで、MSC計画のマスタープラン作成段階から参画している。規制の多い日本ではできないことを、やってみようというわけである。注)NTT

今後の課題と展望
以上、マハティール首相の提唱したMSC計画をみてきたわけだが、世界情勢、マレーシアのおかれた情勢を認識すれば、MSCの計画は唐突なものでないことがわかる。しかし、まだ克服すべき課題も多くある。考えられる問題点、課題、展望を次に示したい。

マレーシア、およびMSCの特徴@は次の通りである。

安定した経済成長をしている
マレーシアのこの10年間の国内総生産(GDP)の生産性の伸びは、8%以上である。また、経済は5カ年計画により、政策の継続性が保証されている。「マレーシア株式会社」のコンセプトのもと、民間企業を育成し、工業成長を続けてきた。。現在マレーシアは、一次産品の生産から、ハイテク産業、知識産業へとシフトを移している。昨夏の経済危機もいずれ近い内にクリアするであろう。

インフラが完備している
MSCは、マルチメディアの理想郷をめざしているだけにあらゆるインフラが完備しており、MSC内ですべてが調達できる。最近整備したインフラには次がある。新南北縦貫高速道路、クアラルンプール・シティセンター、クアラルンプール新国際空港、電気通信タワー、シンガポールへの第2架橋、高速鉄道、コモンウェルスゲーム用選手村、東西幹線道路。

政治的に安定している
1957年に独立して以来、41年間政治は安定している。挿入

囚われるべき因習や規制がない
MSCは、規制の多い先進国よりも、開発された先端技術をすぐに活用するにふさわしい場所である。「産業革命がイギリスで起こりながら、花開いたのは新興のアメリカであった」注)マハティールのスピーチ) 独立して41年にしかならない新興工業国マレーシアには、囚われるべき旧秩序や歴史がなく、新しい考え方を実践する意欲と能力がある。ワンストップショップMDCは、マハティール首相が直接関与し、「スピードと大胆さ」が売り物である。
日本のカラオケ、ゲームソフト、アニメが高い評価を受けるようになったのは、規制を受けずに独自路線を歩んだからである。

インターネットが無検閲である
MSC内では、インターネットは無検閲である。情報通信産業は、情報の公開、言論の自由といった自由の多い土地を選ぶものである。この点、インターネット規制のあるシンガポールより、はるかに有利である。 注)インターネットの無検閲

コスト面で有利である
国際競争力指標によると、マレーシアは魅力的な海外拠点となっている。40カ国以上から3000社以上が進出している。経済上の自由主義政策、整備されたインフラ、低コストの不動産価格、賃金も利点となっている。

生活が健康、快適である
マレーシアでの生活は、インフラ、自然、スポーツ・レジャー施設、国民性の点から見ても、快適である。首都にも近い。注)生活の質

戦略的に重要な位置にある
急成長地域東南アジアの中心に位置し、大市場のインド、中国、インドネシアに近い。歴史的にも貨物集散地として栄え、現在でも主要な航空、海運の拠点になっている。マルチメディア・センターとしてばかりでなく、貿易、投資、観光の地にも適している。

多文化、多言語、多民族環境(国際的)である
マレーシアは多民族国家で、アジア域内の多くの国と共通の文化的基盤を有する。マレー系、中国系、インド系がそれぞれ独自の民族的、文化的、宗教的ネットワークを世界中にもっている。英連邦の一員でもある。また、イスラム国家なる故に、イスラム圏との交流も深い。言語もマレーシア語(インドネシア語と同系統で、インドネシア語が米語、マレーシア語が英語にあたる)、英語、中国語(北京語、福建語、広東語)、インドのタミール語などがおこなわれている。2000万の人口のうち、42%は15~39歳である。

マレーシア語がローマ字表記である。cf.拙
マレーシア語は、ローマ字表記されるので、小学校1年生でも、ローマ字になじんでおり、マルチメディアの時代に適している。@

社会改革、教育改革ができる
マレーシアを情報立国にする過程で、国民の意識を変革し、マレーシアの社会や教育を改革する大きな契機とすることができる。マハティールがMSC計画を主導しているのも、国家や国民の改革の絶好の手段と考えているからである。

地元企業やマレーシア人は先端知識を習得できる
地元企業やマレーシア人は、世界先端企業から多くを習得できる。

MSC計画は、アメリカ中心体制打破の重要プロジェクトである

以上に反して、マレーシアのMSC計画はかけ声倒れに終わるのではないかという声も聞かれる。考えられる危惧は、次の通りである。

外国企業への依存度が高すぎる
マルチメディア外国企業への依存度が高すぎることから、マレーシア企業が外国企業から進んで得ようとしないと、MSCは外国企業に支配されるのではないか、との危惧がある。

国内の人材が不足している
ハイテク産業を支える国内の研究者、技術者といった人的資源に、甚だしく乏しい。このため、外国人専門家の雇用の自由といった措置が設けられたり、大学などの教育、研究機関が設立され専門家の育成が図られる予定であるが、まだまだ不十分である。

パソコン、電話の普及率が低すぎる
一般家庭のパソコン保有率はまだ5%にも満たず、首都圏でも10%にすぎない。電話の普及率も低く注)、インターネットへの接続率も低い。注)都市と田舎の落差も大きく、東海岸のクランタンやトレンガヌでは、パソコンの世帯普及率は、0%に近い。
学校教育でもコンピュータ教育は、かけ声だけに終わっていて、遠隔教育をやろうにも、コンピューターを使える教師がほとんどいないのが実状である。
インターネットのダイヤル接続も、需要に供給が追いついていない。

公共福祉がなおざりになる
中低所得者向け住宅、公共交通機関、医療サービスなどは、政府財源に依存しているが、MSCなどのハイテクプロジェクトが優先されており、公共福祉がなおざりになる傾向にある。注)公共福祉

シンガポールと競合する
シンガポールは、マレーシアより古く、情報立国戦略をとっており、これにどう対抗するかは難題である。多国籍企業や研究開発拠点の誘致、英語の普及では、シンガポールは一歩先んじている。マレーシアが、インターネット無検閲をはじめとする規制のない自由な通信環境をうたっているのも、インターネット規制のきびしいシンガポールとの違いを強調するためでもある。注)シンガポールとの競合

経済の低迷時に、MSCへの投資は不適当である
昨年のアジア通貨の危機以来、マレーシアの経済も低迷を続け、外国からの投資も激減している。1998年9月のコモンウェルス・ゲーム以降は、リンギットは来年初頭までさらに下落するといわれている。
高率の失業率やリンギッド安の情勢において、6億リンギッドをマルチメディア・スーパーコリドーに費やすことは賢明なことでしょうか? 6億リンギッドは、農業、教育部門や地方に回すべきではないでしょうか?もちろん、食料の供給をまず第1にして」注)モハマド・サブ議員

おわりに
マレーシアの経済は、今年1杯は不良資産の出つくしをまち、1999年初頭以降回復基調になると思われるが、経済危機がさらに2年も続くようだと、かなりの手直しが必要になるであろう。
さらに、万が一マハティールが、投機資金の締め出しを狙って、株価、通貨、為替取引を規制するようなことがあると、経済の自由化、国際化に逆行するもので、海外投資家の信頼を失い、逆に株式、通貨の下落を加速し、海外資金が引き上げかねなくなり、同国経済の悪化に拍車をかける恐れがある。「マレーシア売り」は避けられそうにない。

新井:2020年計画は、中身を変更すればよい。→pace down。イスラム国家の見本となるような国造り。多民族国家の見本となるような国造り。


1 注)本稿を記すにあたっては、以下の方々にお世話になりました。記して、謝意を表します。
倉井武夫 東京国際大学教授および岡本秀之 国際通信経済研究所常務理事には、今回(1989年7月)の訪問国であるマレーシア、タイ、台湾のNTT関係の方々の紹介をいただいた。本田聆吉 東京国際大学教授には、同行していただき数々の示唆をいただいた。
マレーシアにおいては、堀田明男 NTT MSC社長、斉藤俊彦 NTT MSC マネージャー、鈴木教弘 NTT MSC副マネージャーにお世話になった。
また、タイでは、木村憲一 NTTバンコク事務所長にお世話になった。
台湾においては、趙昌平 中華民国監察員に数々のご高配をいただいた。Institute for Information Industryでは、President: Kuo Yun, Vice President: David W. Lee, Director: Gary Gong, Manager: Stanley C. Wong,  Wei Lian Lai, Pauline Chenの方々に、Ministry of Educationでは、Director of Computer Center: Lih-Shyang Chen, Al Wu, Science Park Administrationでは、Director General; Kung Wang, Manager: Gial Lin, Section Chief: Tony Fangに、さらに角谷三好 NTT台北海外事務、石井宏昌 NTT台北海外事務所次長にお世話になった。
日本では、新井卓治 マレーシア協会専務理事、竹内史尚 東京国際大学院生の諸氏のご協力を得た。
2 本稿は、1998年度東京国際大学共同研究『ニューメディア普及発展段階の比較研究:アメリカ・日本・台湾・タイ・スリランカ』(桑原政則、本田聆吉、花田康紀)の一部をなすものである。
3 注)立花
4 注)マハティールの著書
5 注)「ビジョン2020」
6 注)マハティール、97年4月訪日の講演)
7 注)設立の経緯 MSCの計画は、1994年10月にマハティール首相と大前研一氏の間で生まれたといわれる。その約1年後新行政首都 プトラジャヤ建設発表の時、首相が正式にMSC計画を発表した。この超巨大プロジェクトの構想から、開始までが異常に迅速なのは、若い国マレーシアだからできたといえよう。日本の首都機能分散が遅々として進まないのと、対照的である。
その後マハティールおよびマレーシア政府は、MSC計画実現へ向けて精力的な行動を開始した。その経緯は次の通りである。このマレーシアの呼びかけに対して、世界の先端企業が協力を表明し、MSC計画は全世界を巻き込んだ壮大な実験へと成長している。

1996年5月:
マハティール、日本を訪問、NTT主催の「マハティール首相を囲む『マルチメディアセミナー』」で講演し、日本の先端企業のMSCへの進出を呼びかける。
1996年6月:
マイクロソフト本社にビル・ゲイツを訪問、マイクロソフト東南アジア地域本部をMSCに開設することに合意。
1997年1月:
120名のミッションを率いて、シリコンバレーで会議を開催、専門家の質疑に首相自らが答え、参加者に感銘を与える。サン・マイクロシステムズ、オラクル、ヒューレット・パッカードがMSC参加を決定。
1997年5月:
ヨーロッパの先端企業を訪問。ブリティッシュ・テレコム、シーメンス、ロイターがMSC参加を決定。
1997年11月:
東京で第7回マレイシア総合セミナーとして、「アジアの情報開発~高度情報化時代を考えるシンポジウム~」開催、マルチメディア開発公社のアリフ・ヌン理事長が基調講演。
1998年3月:
マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長が、マレーシアを訪問、マレーシア閣僚に「政府業務の電子化システム」に関し講義。
1998年9月(予定):
コモンウェルス・ゲーム開催。クアラルンプール新空港を内外へアッピール。
1998年11月(予定):
アジア太平洋経済協力会議(APEC)非公式首脳会議はMSC内でも開催予定。MSCの@
8 注)サイバージャヤ 筆者が訪れた1998年7月段階では、マルチメディア開発公社事務局と隣接のホテル、建設中のマルチメディア大学のほかは、砂利地部分と延々とヤシとゴムのプランテーションの丘陵地が広がるばかりであった。1999年には一部完成の見通しで、いずれ「森の中の都会」を作り出すと関係者は言う。
9 注)MDC URL
10 注)モギー エネルギー・通信郵政大臣、Sun, 1998-7-23
11 注)マルチメディア大学:98年9月に第1期生2000人が入学する予定であるが、筆者の訪れたときは、まだ建設初期でマレーシア人関係者も、この地で9月に開校するのはとうてい無理だとのことであった。
12 注)クアラルンプール国際空港:この空港の設計者は、「共生の思想」の黒川紀章である。URL:この空港は、クアラルンプール南方のスバンにあるが「クアラルンプール国際空港」とよばれる。「新東京国際空港」が、千葉県の成田にあるのど同様である。
13 注)コモンウェルス・ゲーム:第16回コモンウェルス・ゲームは、1998年9月11日から10日間、68カ国から選手、関係者ら6000人の参加の下におこなわれる。加盟国にとっては、オリンピックやサッカーのW杯と並ぶ国際的スポーツの祭典である。メンバーは、かつて大英帝国に所属していたが、その後独立した国家、地域で構成される。人口の総計では、世界の4分の1を占める。こんなところにも、マレーシアの国際性を看取できる。4年に1度のペースで開かれ、過去15回は、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが主開催地であった。アジアではアジアでは初めての開催である。KLIAの開港は、これにあわせることが国家目標となった。
注)空港建設計画
Tabで整理
国名 面積
ヘクタール 滑走路 開始
マレーシア 10000ha 4000m 4本
香港 1670 ha  3800m 2本
中国、上海 4000 ha 4000m 4本 1999年
タイ 3200 ha 3700m 4本 2000年
韓国 4744 ha 3750m 4本 2000年
日本、名古屋 800 ha 4000m 2本 2005年
14 注)基幹プロジェクト MDC用語では、Flagship Applicationという。MDCの説明文は、technical termや、imaginaryな言い回しが多く、情報技術にうとい人の理解を越える場合が多い。またマーケティング戦略のためかmanagerial façadeが施してある(本田聆吉教授の弁)。MDCの出版物を読んでも、ビジョンや内容が不分明だという人が多い。
15 注)マハティールは、医学博士で、開業医の経験があるので、特に医療には力を入れている。
16 注)国際諮問委員会の外国人委員:委員会に名を連ねる主な先端企業のトップは、次の通りである。
    Larry Ellison, Oracle Corporation
    Scott Mcnealy, Sun Microsystems
    William Gates, Microsoft
    Eckhard Pfeiffer, Compaq Computer Corporation
    Lewes Platt, Hewlett Packard
    Gary Tooker, Motorola inc.
    Louis Gerstner Jr., IBM
    Gilbert Amelio, Apple Computer
    Peter Bonfield, British Telecom
    Jur Heinrich von Pierer, Siemens Corporation
    Stan Shih, Acer Incorporated
18 国際諮問委員会の日本人委員:次の8氏である。
出井 伸之 ソニー
児島 仁  日本電信電話公社
公文 俊平 国際大学
宮脇 陞  前日本電信電話公社
大前 研一 大前アソシエーツ
関本 忠弘 日本電気
関沢 義  富士通
孫  正義 ソフトバンク
19 注)NTTのかかわり:
1997年5月、サイバージャヤの国策デベロッパーであるサイバービュー社に資本参加(約27億円、株式の15%)。
1997年9月、全額出資でNTT MSC社(資本金約11億円)を設立。幅広いマルチメディア通信ソフトの開発を手掛けていく。
1998年末、サイバージャヤに研究所を建設(約20億円)。サイバージャヤの都市開発、MSC地域内の情報通信システムの構築、研究所の設立、R&Dへの協力、マルチメディア大学への協力、その他のインフラ作りへの協力。電子政府、遠隔医療、多目的ICカード導入などの応用プロジェクトにも参加予定。社員は1998年7月現在、日本人40人、マレーシア人55人である。
20 注)インターネットの無検閲:マレーシアは議会制民主主義を貫いているが、まだ民族問題などについて一部には言論の統制もある。インターネットを無検閲することにより、外国からの批判が、国内に入ってくることも考えられる。イスラム原理主義の反政府活動も予想される。それ故、これは大胆な思い切った政策である。しかし、これを契機に、情報の統制をはずすことにより、マレーシアが成熟した近代民主主義国家として発展する可能性がでてきたともいえる。
21 注)生活の質:クアラルンプールに近いと言っても、東南アジアの常として、音楽、映画、絵画などの芸術では、みるべきものが少ない。映画もイスラム国だけに検閲がきびしく、プロットがわからなくなるほど、カットされたりする。
22 注)公共福祉:マレーシアでは、都市開発や住宅道路開発に住民が関与する機会があたえられていない。したがって、住民はMSC計画や巨大な都市開発に、最初から関与していない故、このような意見は貴重である。実際、外国への鳴り物入りのプロパガンダにもかかわらず、筆者が宿泊したホテル関係者(ホテル・マラヤ)やタクシー運転手たちも、MDC、MSC、サイバージャヤ、プトラジャヤについて初耳であり、タクシーの運転手も3回も道を間違えた。1998年発行のMap of Malaysiaにも、MSC、サイバージャヤ、プトラジャヤの記載はない。
23 注)シンガポールとの競合:現状では、シンポジウムが1歩リードしており、マレーシアはシンポジウムの物まねとの酷評もあるが、進出企業にとっては、両国の競合により、ビジネスチャンスはさらに増す。また、両国にとっても世界的な競争力をつけるためのよい刺激になる可能性の方が高い。
24 注)PAS(汎マレーシア回教党)のモハマド・サブ議員Sun, 1998-7-23

参考文献
拙のマレーシアNTT宛イーメール
立花隆『「マルチメディア社会」先の先を読む 』97-10-24、国際シンポジウムInfo-Tech97での講演。
伊東俊太郎・安田喜憲編『草原の思想・森の哲学』講談社、1993
奥野卓司『情報人類学』ジャストシステム、1997
坪内隆彦「ワワサン2020への挑戦」『月刊マレーシア』98‐4
「第7回マレーシア総合セミナー報告」『月刊マレーシア』98‐2
坪内隆彦『アジア復権の希望 マハティール』亜紀書房、94‐9
モハマド・マハティール『マレー・ジレンマ』勁草書房、1983
Mahathir Mohamad, Excerpts from the speeches of Mahathir Mohamad on the Multimedia Super Corridor, Pelanduk Publications, 98-2
Mahathir Mohamad, The Challenge, Pelanduk Publications, 1986
Johnston, David; Handa Sunny & Morgan Charles, Cyberlaw: An in-depth guide to the often turbulent, increasingly profitable confluence of business, the internet and the Law, Pelanduk Publications, 98
Ibrahim Ariff, Goh Chen Chuan (compiled and edited by), Multimedia Super Corridor: What the MSC all about, how it benefits Malaysian and the rest of the world, Leeds Publications, 98-6
Hng, Hung Yong, CEO Malaysia: strategy in nation-building, Pelanduk Publications, 98

URL(ホームページアドレス)
MDC, http://www.mdc.com.my/mdc/index.html
MSC, http://www.mdc.com.my/
Multimedia University, MDC http://www.unitele.com.my/
NTT@
Star, www.jaring.my/star/ (Star紙)

 マレーシアに関する日本語URL(ホームページアドレス)には、次がある。マレーシア近隣のタイ、インドネシア、フィリピンなどより、質量ともに充実している。
日馬プレス http://www.nichimapress.com
ポータルアジア http://www.portalasia.com/index.html
アジアの声 http://www.iijnet.or.jp/asia/
マハティール・ウォッチ http://www.iijnet.or.jp/asia/inform/maha-j.htm


私は1982年から85年まで、マハティール首相の経済アドバイザーを努めた。

「地域国家(リージョン・ステイト)論」とは
「4つのC」が国境をまたぐということである。
第1に、コミュニケーション(情報)が国境をまたぐ。
第2にキャピタル・マーケット(資本市場)が国家をこえ自由に動くようになった。
それにともない、第3のC、すなわちカンパニー(企業)が国境を越える。
第4のCはコンシューマー(消費者)やシチズン(市民)だ。
結局、「4つのC」は国の振りかざさないコミュニティ(地域)に集まるようになり、世界の情報・資金・企業・消費者とがダイレクトにつながったシンガポール的地域国家が世界各地に誕生する。

マレー・ジレンマはマレー・ディライト、つまりマレーシアの歓喜に変わりうる。
なぜなら、他民族であるがゆえに、これから大発展すると思われる中国、インド、そしてインドネシアの三ヶ国と民族的にも言語的にもつながりを持つことができるからだ。これをうまく利用しつつ、知的付加価値への転換をはかり、情報のハブ&スポークス(交差点、要所)になれば成長は維持できる。

マハティール首相のEAEC構想とは
マハティール首相のEAEC構想とは、小国マレーシアが発言権を増そうとしてEAEC構想を提唱しているのではなく、世界の貿易システムに対する意志決定に影響力を行使する単位をアジアに広げようとしているだけだというのである。なぜ影響力が必要なのかというと、欧米市場の開放性と自由貿易を維持したいからだと説明する。

マハティール首相ほどアジアに対する日本の貢献を歴史的に正しく評価している世界の指導者はいない。
彼は、日本が第二次大戦中にマレーシアを占領していたことよりも、イギリスの植民地として長い間苦しんだことか諸悪の根元である、という発想がものすごく強い。日本は、なんだかんだと悪口は言われているけれども、技術を与える、企業進出をする、教育をする、金も落とす、そういうありがたい存在だといってくれているのだ。

ブミプトラ政策
マレー人優遇政策=職業や教育の面での陣国に応じた割当制度、宗教面におけるイスラムの優位、教育のマレーシア語化などを実施

「ビミプトラ政策は一定の成果が出た段階で廃止し、マレーシア人をすべて平等に扱うようにしないと、これからの競争に勝てない」

このままブミプトラ政策を継続すれば、結局はマレー人に傲慢と怠慢を生む。常に中国人が犠牲になるという状況はフェアではない。

アメリカ的民主主義とアジア的独裁
我々の発展段階は30年遅れているので、現在の西欧の価値体系を採用しても、彼らに追いつくことはできません。
欧米の過ちは、ただひとつの文明、ただひとつの価値体系しかないと考えていることだと思います。

フランシス・フクヤマ氏が言うような意味の「家父長的な権威主義」「ソフトな権威主義」について、マハティール首相はある程度肯定している。しかし、本来、時間軸をおくか、一人当たりGNPという指標で肯定すべきである。
しかし、シンガポールのように1万4000ドル経済になっても、まだいろいろなことを規制しているのはよくない。3万ドルになってもまだ中央集権と権威主義、許認可規制を続けてきた日本がおかしくなったのと同じように、マレーシアもどこかで自由化に向かわざるを得なくなるはずだ。
私は国の発展段階によって、政府と民間、あるいは政府と地方との役割は変わってくると考えている。

ただし、マハティール首相が正しいと思うのは、欧米が30年先を行く経済社会を持っているからといって、彼らの価値観をマレーシアに押しつけるべきではないと言っている点だ。アメリカは、世界中に民主主義をばらまこうとしているが、どんな国でも投票によって指導者を選べばよくなると言うのは幻想である。

会社を成長させていく方法は、いくつもある。仲良し5人が集まり、ワイワイガヤガヤと民主的にうまく持っていく方法、または、一人の強いリーダーがビネボラント・ディクテーター(慈悲深い独裁者)となり大きくなるまで持っていくというものもある。その後、そのまま独裁や同族支配が続いてつぶれる会社もあれば、同族支配がゆえにうまくいく会社もある。大切なことは、その発展段階になにがもっとも適しているのかを見つけることである。

情報集約型産業
情報集約型産業の例としては、CAD – CAM(コンピュータ支援による設計・製造)、国内で組み立てるための主要部品の製造がありますが、ワークステーションやサーバー、ネットワークの利用もひとつの可能性である。ネットワークを通じて、金融・保険・法律・会計に関する専門的サービスを世界中に提供できます。

『ニュー・ストレイツ・タイムズ』にも『バンコク・タイムズ』に載っているような情報をいくつか転載してほしいものです。『バンコク・タイムズ』には、ミャンマーやカンボジア、ラオス、ベトナムに関する情報がはるかに多く含まれているからです。これがマレーシアではあまり得られない。


坪内
イギリスの植民地支配において、マレー系、中国系、インド系を中心とする民族の分断統治が固まり、中国系が経済を牛耳るいびつな構造が放置されていた。中国系との経済格差に対するマレー系の不満は極度に高まっていたにもかかわらず、1971年以前には、政府がマレー系を具体的に優遇するシステムは作られなかった。
1969年5月、不幸にも選挙後の些細ないざこざから、マレー系と中国系のあいだで人種暴動が発生、経済格差の是正なしに民族間の協調がありえないことが証明されてしまったのである。
マハティールは、ラーマン首相の無策の責任を追求、与党統一マレー国民組織(UMNO)から追放されたが、ラーマンはまもなく辞任、後を継いだラザクによってNEPが採用されたわけである。


ブミプトラ
NEPは「マレー人の貧困の撲滅」を主眼とし(1)貧困の撲滅、(2)社会の再編を目標として掲げた。マレー人優遇政策は、ブミプトラ政策ともいわれる。ブミプトラ(bumi peutra)とはサンスクリット語の「大地の子」という意味で、中国人、インド人のような移住民でなく先住民族、土着民族としてのマレー人を指す。植民地経済において、虐げられた土着民族の復権を目指した政策といっていい。
具体的方策としては、(1)ブミプトラと他の民族との所得不均衡の是正、(2)雇用構造の再編、(3)種族間の資本所有の再編、(4)ブミプトラ企業の育成――があげられた。
むろん、1971年のNEP採用によって、マレー系と中国系の経済格差はかなり埋まった。かつて、わずか2%ほどだったブミプトラの資産保有比率は、最近では18%まで伸びてきている。マレーシアとしては中国系の活発な経済活動を阻害することは避けなければならないということが強く意識されるようになった。
いずれにせよ、経済発展の土台となる政治的・社会的な安定の確保と民族間の協調促進のために、民族間の経済格差を埋めるという政策は大きく寄与してきたのである。

IMF
ロシアへの支援の失敗で、金融市場の最後の貸し手であるIMF(国際通貨基金)への信頼が揺らいでいる。経済危機克服のための画一的な処方箋に批判が噴出している。専門家からは、IMF限界説や廃止論もでている。
タイや韓国では、一定の成果を収めた。だが、インドネシアでは、失業者の増加などによる社会の混乱をまねき、性急で画一的なやり方に対する不満が噴き出ている。

マレーシアの外為規制
窮余の一策である。
津波のように入り込み、出ていく資金は経済運営をさまたげるとの不満は、新興成長諸国にくすぶっている。肥大化したマネーにとまどい、規制という誘惑に駆られ始めた。
アジアでは経常赤字拡大とバブルが通貨混乱の背景にある。
通貨の固定相場制への移行をして、国内経済を国際経済から遮断して、通貨を安定させ、経済危機を乗り越えようとした場合、かえって外国人を株式市場から閉め出し、外国資本が寄りつかなくなり、経済危機からの脱却はかえって難しくなるおそれがある。

マレーシアの現状
1998-7-31現在34万のインターネット受信者。2000年までには、100万人。Sun,1998-7-23
Eコマースは、昨年1600万リンギット、今年は8000万、2000年には14億に。Sun, 1998-7-24
2000年以降の成長率は、5-6%

マハティール略歴
1925    誕生(12月)
1946    反マラヤ連合案の政治活動開始
1947    エドワード7世医科大学入学
1953    MBBS取得、医師として活動開始

1956    ハスマと結婚
1957    クリニックを開業
1964    第2回総選挙実施、マハティール下院で当選
1967    ハーバード大国際問題セミナーに参加
1969    第3回総選挙実施、マハティール落選
            クアラルンプールで種族暴動(5.13事件)
        マハティール、UMNO除名
1970    「マレー・ジレンマ」を出版
1972    UMNOに復帰
1973    マレーシア食品工業公社会長に就任
1974    教育大臣に就任
1976    副首相に就任
1981    首相に就任        ルック・イースト政策発表
1982    国際イスラーム大学の設立構想提案
1983    マレーシア株式会社構想発表
            民営化構想発表
            憲法改正案を議会に提出
1986    外資に関するガイドライン発表
            「挑戦」を出版
1987    党大会でマハティール・ガファール連合が勝利
            マハティール提唱の「南委員会」発足
1989    緊急入院
1990    南側サミットを主宰
            EAEG構想提案
1991    WAWASAN2020提唱
1992    第2回途上国環境相会議を主宰
1993    サルタン関連の憲法改正案提出
            APEC首相会議ボイコット
1994    クリントン大統領と会談


写真説明
1←3 マルチメディア・スーパーコリドー(MSC)内の新首都プトラジャヤ付近。なぜか警戒厳重で内部にも立ち入れない。
2←4 MSCの運営母体であるマルティメディア開発公社(MDC)の看板。まだ道路だけなので、知らない人も多い。
3←5MDCの本部。ショールームのようで、車も少なく、人影はまばら。
4←1マルティメディア大学遠景 筆者のうしろに下水管が見える。
5←2 マルティメディア大学 校舎もやっと形を見せ始めたところ。

Cyber imperialism チェンマイ大学の女子教授

大前研一『アジア人と日本人』小学館、1994


逸材を輩出する中国のユダヤ人・ハッカ(客家)

福建省のハッカ土楼(どろう)。/f13MQ
土楼の内部 /EgDWp
中国のユダヤ人とよばれるハッカ(客家)は、放浪差別をバネに、逸材を輩出しています。
視野が広く教育程度が高いのが特徴です。
  • 太平天国総帥・洪秀全
  • 革命家、中華民国初代総統・孫文
  • 孫文夫人・宋慶齢
  • 中国解放軍将軍・朱徳
  • タイガーバーム・胡文虎(コブンコ)
  • 市場経済の父・鄧小平
  • シンガポールのリークアンユー(李光耀)
  • 台湾元総統・李登輝
  • タイ元首相・タクシン
  • タイ首相・インラック
しっかり自己主張をし、孤高の決断をします。

鄧小平は、共産中国に、市場経済を導入し、今の中国を築きました。

リークアンユーは、シンガポールを「北京語の国」にし、次に「英語の国」にし、いままた「米語の国」にして、アジア一の高水準国家を築いています。

李登輝は、自国に外国の軍隊もおかず、対立を恐れず堂々と自国の尊厳を主張しています。

ハッカ(客家)とは「よそ者」という意味です。
英語では、Hakkanese(ハッカニーズ)といいます。

もともと黄河中原に住んでいましたが、紀元後に戦乱を避け数次にわたり南遷して来ました。
誇り高き中原文化の継承者と自負しています。
言語も官話の音韻的な特徴を保存しています。( 桑原政則、「中国系諸民族の言語と文化」1997)


移住先の福建省、広東省、江西省、湖南省、四川省では先住の漢民族との争いが絶えませんでした。
そのため山岳の移住地に逃れ、孤立して暮らしています。

また、山岳の移住地では、生活もままならないことも多く、海南島、台湾、東南アジア、さらには北アメリカに雄飛しました。

海外華人の3分の1をハッカが占めています。
「華僑は革命の母」と称した革命家・孫文は、海外のハッカ閥のサポートを受けました。

ハッカ人の人口は日本と同じくらいです。

2012/04/25

ネイティブアメリカンの子育て名言

ドロシーローノルト
http://goo.gl/pqbb6
http://goo.gl/dCo2I


【cf.】加藤諦三著『アメリカインディアンの教え』扶桑社文庫

台湾元総統・李登輝の読書歴

http://goo.gl/8LVFh
日本精神の理解者、体現者
李登輝(Lee Teng-hui、1923年- )は、シンガポールのリークアンユー、マレーシアのマハティールとならぶアジアの鉄人政治家です。

日本精神の理解者、体現者である李登輝の読書歴をご紹介します。

いまの日本は、このような骨太の気骨のある知識人を求めています。

<*  李登輝は、堂々と尖閣列島は日本のものであると主張しています。

◇                    ◇                    ◇

李登輝は、台湾の中学生の時すでに鈴木大拙を読み、『臨済録』(臨済の言行録)をひもとき人生の指針としていました。

さらに
     『漱石全集』、
    阿部次郎『三太郎の日記』、
    倉田百三『出家とその弟子』、
    『古事記』、
    『玉勝間』、
    『源氏物語』、
    『枕草子』、
    『平家物語』、
の愛読者でもありました。

1940年李登輝は台北高校に入学しました。
1学級40名の中に台湾人は、4~5人のみでした。

英語、ドイツ語、バイオリン、剣道をよくしました。

のちに博学、多趣味の総統といわれるのも、全教科型の勉強を続けたことによることが大きかったようです。

特に剣道で、「忍耐、正確、迅速」を体得したことがその後の人生に大きな影響を与えました。

高校時代の愛読書は、
    西田幾太郎『善の研究』、
   和辻哲郎『風土』、 
   中野好夫『アラビアのロレンス』、
   アインシュタイン『物理学はいかにして生まれたか』、
   ゲーテ『ファウスト』、
   『若きウェルテルの悩み』
などで、岩波文庫だけで700冊以上も所有していました。

もちろん中国の文学と思想に関する書も読破していた。

1942年8月台北高校を繰り上げ卒業し、同年10月京都大学農学部農業経済学科に入学しました。

農業経済をめざすようになったのは、農村の小地主のせがれに生まれ、早くから農業問題の矛盾に疑問を抱いていたからであり、また高校時代の若い日本人の先生の影響だといわれています。

京大の卒業論文は、『台湾の農業労働問題の研究』でした。

京大時代は社会主義関係の書物を読みふけリました。

『資本論』も繰り返し読みました。
ただ、ヨーロッパのマルクス主義者のアジア停滞史観には疑問を感じました。

その後も日本語の書物には目を通しており、中村雄二郎の著作はほとんど読了し、後年『哲学の現在』は中国語にみずから翻訳しました。

西田幾太郎も座右に置いています。(『朝日新聞』1999年2月17日)

「私は、いまだに一生懸命に勉強を続けているが、先に述べたように一番多く読むのが日本の書籍なのである。

それはなぜかといえば、日本には非常な深みがあり、それが本の中に集約されているからだ。

アメリカの本をもっと読んでいいと思うのだが、私はどうしても日本の本を読書の中心に据えている。」(李登輝、『台湾の主張』1999年)

左は兄、日本兵としてフィリピンで戦死。http://goo.gl/XpSWT
京大には1年2ヶ月の在籍で学徒出陣で駆り出されました。

1944年、日本で陸軍に入隊後、台湾で訓練を受けるために台湾行きの船に乗船するはずのところを仲間と共に見逃してしまいました。
その船は米軍に撃沈されました。

陸軍予備役士官教育を受けるため、再び台湾から千葉県に送られ、陸軍少尉として敗戦を迎えます。

このとき、22歳の李登輝は、他の台湾人と同様日本人から中華民国人となりました。

1946年、台湾に戻り、台湾大学農学部農業経済学科3年に編入しました。

当時の台湾は、日本の法治時代から国民党の無法時代に移ったばかりでした。

国民党軍は台湾で政権をとったばかりで、兵士や官吏の無法貪欲が横溢し、社会は混乱、治安は悪化の一途をたどっていました。

李登輝、沖縄での講演  【1:28】2008年

台湾年表、李登輝年表

李登輝と台湾の民主化 (35000字)

 <*  李登輝、リークアンユー、ともにハッカ(客家、中国のユダヤ人)です。>

李登輝と台湾の民主化 (35,000字)

李登輝と台湾の民主化

Dr.Lee Teng-hui and the domocratization of Taiwan

 桑原政則 1999年

目  次

キーワード
略語
中国語の日本語訳
台湾地図
台湾史年表

はじめに

第1章 西欧、清、日本統治下の台湾
  1 台湾の原住民
2 西欧支配下の台湾
3 鄭氏政権と清国
4 客家
5 福建省
6 漢字が漢文化圏のきずな
7 日本植民地下の台湾
8 李登輝の読書歴

第2章 国民党時代の台湾 (別ページヘ)

1 2・28事件と蒋介石
2 外省人
3 戒厳令
4 李登輝、日本、台湾、アメリカを体験
5 李登輝、コーネル大から博士号
6 台湾、国連を脱退
7 蒋経国時代のはじまり
8 李登輝、台北市長に
9 李登輝、台湾省政府主席に
10 李登輝、副総統に
11 戒厳令、解除

第3章 李登輝の台湾  (別ページヘ)

1 李登輝、総統に
2 李登輝、総統に再選
3 李登輝、2・28事件45周年行事に出席
4 台湾と韓国
5 李登輝、党主席に再選
6 台湾の歴史、地理を知らされない学生
7 李登輝、台湾人の悲哀を語る
8 李登輝、コーネル大を訪問
9 李登輝、初代民選総統に
10 言論自由の時代へ
11 台湾人でよかった喜びの創造へ

おわりに(脱落)


参考文献
地図の説明


キーワード

2.28事件 戒厳令 外省人 国民党 蒋介石 蒋経国 省籍  情報立国 新竹科学工業園区 民進党 本省人 李登輝  

中国語の日本語訳

〇〇部 省 経済部→通産省
〇〇部長 大臣 経済部長→通産大臣
行政院 内閣
行政院長 首相
経済部 通産省
総統 大統領
中央常務委員会 最高決定機関
報禁 新聞新規発行禁止
立法院 議会
両岸関係 台湾・中国関係



 <*  図版、写真は省略>

◇                    ◇                    ◇

はじめに


台湾の400年の歴史は、オランダ、清国、日本、国民党と外来政権の支配史であった。李登輝は、これを台湾人の台湾史にせんとしており、そのためには国民党を台湾人の国民党にしなければならない、と力説する。李登輝は、台湾が台湾であらんとする時、忽然とあらわれ、台湾を、自由化し、民主化し、台湾化し、台湾を国際舞台にひきあげようとしている。
この大事業は、まだ緒についたばかりで、『出エジプト記』のモーゼと人民のごとくまさしく「これからがたいへん」なことである。李摩西(李モーゼ)の役目は、エジプトからのexodusをおこなったモーゼのごとく、台湾人を自由と民主の天地に導くことである。失敗は許されない、台湾民族の消滅につながりかねないからだ。しかも、時間は切迫している。中国が経済発展をし、軍事超大国になる前のここ5年しか、チャンスは残されていない、という識者もいる。
本稿では、台湾の現代史を李登輝を中心に概観しつつ、台湾の民主化の過程について論及する。

第1章 西欧、清、日本統治下の台湾

  1 台湾の原住民

台湾は、400×200㎞のサツマイモの形をした九州の大きさの島である。中国大陸とは200キロ、与那国島とは120キロ、台湾最南端の島とフィリピン最北端の島とは85キロの距離にある。
台湾には漢民族以外に先住の民族がおり、彼らはみずからを1992年から誇りを込めて、「原住民」とよぶようになった。台湾の原住民は、タイヤル人、サイシャット人、ブヌン人、ツォウ人、ルカイ人、パイワン人、プユマ人、アミ人、ヤミ人の9種を数える。言語的には、オーストロネシア語族(インドネシア語派またはへスペロネシア語派)に属する。台湾ではオーストロネシア語を話すこれらの種族を「高山(こうざん)族」、「山地同胞」、「山胞」とよぶ。日本語では、高砂(たかさご)族とよばれた。「高砂族」とは、狭義には、日本植民地時代の先住民に対する総称である。高砂族と呼ばれるようになったのは、1923年に昭和天皇が摂政として訪台したときのことである。
これらとは別に、漢民族に同化し、固有の言語文化を失った種族を、かつては熟蕃、あるいは平原地帯を占拠していたので平埔(へいほ)族ともよんだ。平埔族にはケタガラン族、ルイラン族、カバラン族、タオカス族、パゼッペ族、パポラ族、バブザ族、ホアニヤ族、シラヤ族があるが、漢族系の移住民との通婚や漢族化により漢族の中に埋没融合し、目立つ存在ではなくなってきている。
台湾の最初の都である台南のシラヤ族の言語で台南の海浜の一部をを「タイアン」とよんでおり、これが台湾の名称の由来である。熟蕃に対し、同化しないままの先住民は、生蕃(せいばん)とよばれた。「熟蕃」、「生蕃」は、蔑称であるので、現在は廃止されている。
これらオーストロネシア語族先住民の原郷は、中国大陸であり、大陸から台湾、フィリピンをへて、現在のインドネシア方面やオセアニアに拡散したとするオーストロネシア語族の台湾経由説がある。この説によると、この語族の南下拡散時に、台湾にとどまったのが、また一旦外にでて北上してきたのが、台湾原住民である。(桑原、1989、p.114)原住民は台湾人口2200万の2%、40万人を占める。これらインドネシア系の民族は容貌、体格が日本人に酷似している。筆者は1999年9月ボルネオのクチンで「日本人は、山に住んでいるケラビット族に似ている。きっと、ケラビット族が大昔、北上して日本に入り込んだのでしょう。彼らは今しあわせですか?」とからかわれたことがあるが、どうもインドネシア系民族の基層が日本人のなかに色濃くあるようだ。
原住民には、日本語をよくするものが多い。筆者は1993年台湾本島の東南に浮かぶ蘭島にあるヤミ人の村を訪ねたが、村長格の人は日本語を上手にあやつり、李登輝ととった写真を見せてくれた。また、日本語の名前をカタカナで書いてくれた。ヤミ人はフィリピンのバターン人と同系統で言語もバターン語に近い。筆者のグループの者がタガログ語を話したら、通ずるので双方が驚きあい、あらためてヤミ人はバターン人が北上したものであることを実感した。これら原住民は、多部族に分かれていたため、ついに統一した政権、王権を樹立することができなかった。

タイヤル、ヤミの写真

2 西欧支配下の台湾


15世紀、西欧列強のアジア進出の先頭を切ったのはポルトガルであった。まず、1498年、バスコ・ダ・ガマがアフリカまわりで、インドにたどり着いた。1498年といえば、コロンブスがアメリカ大陸を世界に紹介した6年後、日本では北条早雲が小田原を攻略した3年後のことである。ガマがたどり着いたのは、インド南西端ケーララ州のカリカットである。ガマは、東アフリカから乗せたヒンズー教徒を水先案内人として来航した。彼の上陸地点には,記念碑が建てられている。白の木綿地キャラコの名はカリカットに由来する。
ポルトガルは、1510年にインドのゴア、1511年にマレーシアのマラッカを占領した。さらにアジア航路を独占するため、1537年にはマカオを占拠した。ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲を伝えた翌1544年、台湾海域航行中の船員が緑したたる島影をみてIlha Formosa! (イーリャ・フォルモーザ=麗しの島)と感嘆の声を上げたといわれている。ilhaは英語ではisle、formosaはformに由来し「形(form)のよい」というのが原義である。欧米では今でも台湾をFormosaとよぶのはこのためである。となると、台湾人はFormosanとなり、台湾国は「美麗国」となるわけだが、ここまで敷衍する者はまだいない。
オランダは、ポルトガルにほぼ100年遅れてアジアに進出した。1596年インドネシアのジャカルタに到着した。ジャカルタに東インド会社を設立し、中国、日本との貿易をめざした。1603年オランダ艦隊は、ボウ湖列島(桑原:漢字に訂正→サンズイ+彭)に上陸した。一旦、明王朝から追放されるが1622年再び占領した。
1624年、オランダ艦隊は、ボウ湖列島撤退を条件に、明王朝から台湾全土の領有権を得た。破格の好条件であったのは、明王朝が元々この地を自国領と見なしていなかったからである。漢民族は、福建人をのぞいて、海が苦手で、台湾へ最初に進出したのも、中国ではなく、オランダであった。しかもそれは中国5000年の歴史から見れば、つい最近の1624年のことであった。
オランダは、台湾を当初単なる寄港地と見なしていた。しかし、原住民のとる鹿皮が高く売れ、また砂糖が巨利を生み出し始めると本格的に台湾経営に乗り出し、対岸の福建省からの大量の移民を招来した。オランダ時代の末期には、中国人が5万人いたといわれる。

3 鄭氏政権と清国


1661年、鄭成功はオランダを台湾から追放した。鄭成功は、今でいえば、日中密貿易グループの駐日代表ともいうべき台湾人海賊の親方と、平戸の田川氏の娘の間に生れた。国運の傾いた明朝に招かれ、皇帝から国の姓である朱姓を弱冠21歳で賜わった。この恩に報いるために、それまで38年間にわたり台湾南部を支配していたオランダ人を駆逐した。また、明朝と運命を共にし、最後には台湾に陣取って新しい異民族の清朝に抵抗した。
明の遺臣として38歳で夭折するまで節を曲げなかったという意味で、国民政府からも大陸からも、実際には台湾のために戦ったのではないけれど、大陸反攻の先達として今に崇められている。「成功祠」という祠(ほこら)に祭られている。近松門左衛門の時代浄瑠璃の代表作『国性爺(こくせんや)合戦』は、父が中国人,母が日本人の鄭成功の英雄譚に題材をとった作品である。「こくせん」とは明王朝の姓ということだから、正しくは「国姓」であるが近松は意識的に「国性」と改字した。
1683年清王朝は、明王朝の再興を旗印とする反清復明の鄭氏政権をほろぼした。清朝は満州人にモンゴル人が協力して中国の外につくった連合政権であった。中国人は中国の行政を担当するだけで、満州、モンゴル、チベット、新彊の統治には関与を許されなかった。中国は満州人の植民地にすぎなかった。1863年に清朝に征服された台湾は、満州人の支配下に入ったのであって、中国の領土になったのではなかった。(岡田、p.224)
清朝の第1公用語は満州語であり、必要に応じてモンゴル語と中国語が併用された。なお、標準中国語は、Mandarin(マンダリン)ともいわれるが、これは清朝時代の高級官吏である「満州人のお役人様(満大人=マンターレン)の使う言葉」に由来する。中原地方でおこなわれていた中国方言を満州人などの外来人が数百年にわたって簡略化してできたものが、標準中国語である。(桑原、1997、p.106)
清は台湾の経営には消極的であった。マラリヤなどの風土病も蔓延していたし、212年間の清が支配している間に100件の武力蜂起や騒擾事件がおこっていることから推測されるように、反乱蜂起の地であったからだ。清王朝は台湾が反政府の根拠地、海賊の巣窟になることをおそれて、渡航を厳しく制限し、妻子の渡航も禁止した。
上述のごとく、清朝は、中国人の国家ではなかった。「中国だけを統治していたのではない。モンゴルも、満州も、中央アジアもチベットも統治しており、中国はその帝国の一部にすぎなかった。」(岡田、p.183)それ故、清朝は、辺境ショウレイ(桑原:漢字に訂正→別記)の台湾を統治するつもりはなく、安全保障上占領していたにすぎなかった。

4 客家


清は、広東省は海賊の巣窟であるとの故に、広東省からの台湾への渡航を禁じた。広東省の客家が台湾へ移住するのが福建人より遅れ、山麓などの三等地しか入手できなかったのはこのためである。
客家は、ハッカとよみ、「きゃっか」とはほとんどいわない。「よそ者」という意味であり、いまにいたるも、中国では異邦人である。高木桂蔵の『客家(ハッカ)』の副題は、「中国の内なる異邦人」である。広東省東北部の梅県方言を標準語とする。客家族は、この地域の住民ではなく、4世紀頃より中原や華北から戦乱を避け、数次にわたり南遷してきたと考えられている。移住先では先住の漢民族や少数民族との争いが絶えず、また、山岳の移住地では、生活もままならないので広西チワン族自治区、四川省、湖南省にもさらには、海南島、台湾、東南アジア、北アメリカにも移住した。台湾でも、先住の福建人と後述の「械闘」とよばれる戦闘を諸処で繰り返した。
女性が積極的に戸外労働をおこなうこと、特有の住居形式、かつての犬食の習慣など、漢民族の本流とことなる独自の風習が客家社会にはみられる。団結力が強く、誇り高き中原文化の継承者と自負している。他の漢民族より視野が広く、教育程度も高く教育者、弁護士が多く、「中国のユダヤ人」ともよばれる。
南宋末期忠臣の文天祥、太平天国総帥の洪秀全、孫文、孫文夫人の宋慶齢、毛沢東と共に革命をおこした朱徳、タイガーバームの胡文虎、トウ(桑原:漢字に訂正→登+オオザト)小平、中国解放軍の将軍朱徳、シンガポールのリークアンユー(李光耀)、台湾の李登輝は、いずれも客家出身である。李登輝は客家人であるが、客家語はできず、客家人の意識は薄いという。(桑原、1997、pp.111-112)
オランダの支配の終わる頃の台湾の人口は、原住民が8万、大陸からの移民が2万と推定されている。移住民は鄭氏政権(1661-1683)の23年間に12万人以上に増加した。清朝になると移民は急増し、1800年代末には300万人が暮らす島となった。1942年の日本統治下には、600万を数えており、この他に、日本人が40万人住んでいた。
現在の台湾は、本省人(福建人+客家人+原住民)と外省人からなる。本省人とは、台湾が、1684年清朝の版図に入って以降福建省南部から大量に移住してきた福建人と広東省からの客家人に大別される。人口2200万のうち本省人が9割を占める。
先述のように、かつては台湾では「械闘」をおこなった。械闘とは、同郷人を結集して、闘うことである。ショウ(サンズイ+章)州系、泉州系、客家系、また原住民が加わって、三つ巴、四つ巴で争うこともあった。この械闘が、外部勢力の台湾統治、分割支配を容易にした。

5 福建省


本省人は主として福建省の南半からの移住民である。福建省は、省域の9割を山地、丘陵が占める山岳省で、平地は海岸部と山間部の間の地域だけにすぎず、地理環境は日本に似ている。河谷平野間の交通も不便で、地域内の交流もないため、方言差がいちじるしい。福建省の中央を両断するビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)江を境として北と南ではことばが通じ合わない。北、西、南を山脈が覆い、隣接の浙江省、江西省、広東省とも峠によって連絡するほかは、沿岸航路に頼るしかなかった。(参照:福建州の言語地図)
ために、古来より陸の孤島の趣を呈しており、官話系(北京語)、呉語系(上海語)、粤語系(広東語)、客家語系などとも孤絶していた。北京語、上海語)、広東語相互間の基礎語彙の残存語率は70%以上の高率を示すが、ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)語系と北京語、上海語、広東語、客家語系間の残存語率は50%以下であり、言語的にも独立王国として存在してきたことが分かる。漢民族がここにやってきたのは、3世紀の頃で、中国の版図に確としてはいるのは、やっと宋の時代紀元1000年頃のことである。福建省は、もともと中国の中の異国であった。(桑原、1997、p.112)
ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南系には、ショウ(桑原:漢字に訂正→サンズイ+章)州系と泉州系がある。泉州は、宋、元代には中国最大の貿易港、海のシルクロードの出発点として繁栄した。ベネチアのマルコ・ポーロが、ジパングを知ったのもここであり、1292年海路帰国の途についたのもここ泉州である。「ジパング」は、ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南系のジップンに由来するものとおもわれ、ジップンからJapanさらにはNipponが誕生したとビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南人は信じている。JapanとNipponは、びん(←門+虫)南語起源の一卵性双生児ということになる。
東南アジアおよび世界の各地に居住する3000万の海外華人(Overseas Chinese)は、地縁、血縁、言語をもとにした互助機関である幇(パン)を組織するが、福建幇、潮州幇、広東幇、客家幇、海南幇の華僑五大幇は、中国23省のなかで、すべてこの福建省と広東省および広東省旧属の海南省を母体とする。台湾へは主として、福建省南半から移住したが、彼らは華僑とは呼ばない。華僑とは、中国、台湾、マカオを除く場所に居住する中国人のことである。中国、台湾国籍をもつものを華僑、現地国籍をもつものを華人と区別することがあるが、それらの総称として華僑とよぶことが多い。(桑原、1997、p.115)筆者は、1997年にインドを訪問したが、当地の新聞は印僑のことをNRI(Non-Resident Indian)と記していた。これに習うと、華僑はNRC(Non-Resident Chinese)、華人はRC(Resident Chinese)となる。
福建語を、フィリピン華人の8割、インドネシア、ミャンマー華人の5割、シンガポール華人の4割、マレーシア華人の3割、タイ、ベトナム、カンボジア華人の1割が話す。台湾人にとって、東南アジアは外国らしくない外国である。ここにも台湾経済の発展の秘密がある。東南アジアは、台湾人にとって同郷人がビジネスを営んでいるところなのである。
たとえば、筆者が1996年マレーシアのペナンを訪れた時、台湾人向けにコンドミニアムが盛んに売り出されていたが、台湾人にとって、ペナンは住民もほぼ福建人で、言葉、食事、気候、習慣も故国と同様なので、まことに適応しやすいはずである。同行の台湾人の小学生が屋台街を我が物顔で歩き、食べ物を注文し、金銭のやりとりをきびしくおこなっていたのが印象的であった。筆者はまた1999年ボルネオのサバ州コタキナバルを訪れたが、町中中国文字があふれ、特に1999年9月9日は吉日のため、華人系の結婚式でホテルは満杯で、ここでも台湾人の老若男女が自国にいるようにくつろいでふるまっていた。
ところで、台湾語とは、一般には、台湾語化された福建語、ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南語をいう。客家人や原住民は台湾語が話せる。台湾においては、台湾語が話せないと、心からうち解けた会話ができず、商談にもさしつかえる。ために、外省人の第2、第3世代においては、台湾語を得意とする者が少なくない。しかし、本省人でも台湾語は庶民のもので、下品という感覚があった。1993年、筆者は、いずれ台湾語復権の時代がくるからと、台湾人学生に台湾語についての修士論文を書くように勧めたが、説得に骨を折ったことを思い出す。

6 漢字が漢文化圏のきずな


ここで、中国政府が台湾は中国のものだと主張する一因には、漢字が深くかかわっていることに言及しておく。中国語には、北京語、上海語、広東語、福建語、客家語などがふくまれるが、これらの言語間の意志疎通はなされず、したがって広い意味での中国語とは、英語、ドイツ語、フランス語をヨーロッパ語、あるいは西欧語という名称のもとで、一括称呼するようなもので誤解を招きやすい。これら諸言語を、言語学的には別言語とする学者もいるほどである。

北京語と上海語とでは話が全く通じない。このことを中国語では、「鶏と鴨がはなす」という。北京語と上海語は、発音ばかりでなく、声調(トーン)もちがうのだから通じようがない。声調は北京語では4種だけだが、上海語では7つ、広東語にいたっては9種もある。
これらの言語間では、発音や声調ばかりでなく、使用語彙もことなる。象徴的な例をあげると、公園で実見したゴミ箱の名称だが、北京では「果皮箱」、杭州では「果売箱」(「売」は「穀」の簡体字)、上海では「廃物箱」とそれぞれことなっていた。
われわれの第2番目の潜在地・西湖で有名な杭州での案内人は上海人だったが、杭州から上海まで汽車でわずか4時間なのに、彼はこの土地のことばは全くわからないといって、標準語(北京語を改良したもの)を話せる人としか話さなかった。
(桑原、1989、p.202、1980年記、)

これらいわば別言語とも言うべき中国語諸言語間のコミュニケーションの媒体になっているのが、漢字である。中国人を中国人たらしめているのは、人種や宗教ではなく、ことば、仕草、食事の仕方、倫理観など共通の習俗生活様式の総体であるが、この中心に位置するのが、実にこの漢字なのである。漢字は、ヨーロッパのラテン語と同じく、中国文化圏のリンガ・フランカであり、漢字文献が漢文化圏を結合するきずなの役割を担ってきているのである。
このように紀元前の秦の統一以来、漢文は中国の「共通語」の役割をはたしてきた。言葉が通じ合わない同士でも、筆談でコミューニケートできたのは、漢文のためである。そして漢文は変化を好まず、保守的であった。というのは、儒教史観の根本は、「万古不易」(=歴史の法則は変わらない)ということで、時代の変化を認めようとせず、隋の時代から秦末(1905)まで1300年続いた科挙の試験においても、古典にのっとった漢文の作成能力をためし続けたからであった。
あらゆる思想、哲学にも増して、漢字・漢文こそが中国統一の基本要素であった。漢文がなければ、中国は、今のヨーロッパのように多くの中小規模の国々にわかれていたといわれる。いま、たとえば広東語をベトナム語のようにローマ字であらわしたならば、広東圏は一挙に漢文化圏から離れてしまうだろう。


7 日本植民地下の台湾


1895年、台湾は清国から日本へ割譲され、50年にわたる日本の統治が開始された。清が日本に負けたとき、李鴻章が真っ先に日本に割譲したのが台湾だった。台湾は厄介な化外(けがい)の地であったからだ。日本は台湾を統治する30数年前に明治維新で近代化を経験したが、台湾に明治維新方式をもちこみ産業振興、水利、鉄道、郵便などのインフラ整備、教育の普及などの近代化をきわめて短期間に行った。このため、台湾の近代化は中国より数段に早く進んだ。早田、p.210)
とくに、教育には格段に力を注いだ。概して、教師は使命感が強く、人格的にも優れ、敬愛と信頼を一身に集めていた。「霧社事件」などはあったが、原住民に対する日本語教育の普及率は、諸族間で言葉が通じないことも相まって、漢族系台湾人よりも高く、日本語は原住民間の共通語になっていた。日本語が国際共通語であるのは、台湾山地民のみであろう。
イギリスは1786年からマラヤを植民地化したが、マラヤ大学を設立したのは160年もすぎた第二次大戦後の1948年のことであった。日本は、領有から早くも33年後の1928年に台北帝国大学を設立しており、これは阪大や名大よりも早かった。帝国大学は、東大、京大、東北大、九大、北大、京城大学、台北大学の順で設けられた。李登輝が「植民地時代に日本が残したものはおおきい。批判する一方で、もっと科学的な観点から評価しなければ、歴史を理解することはできないと思うな。」」(司馬、p.390)と日本時代の台湾を再評価の必要を述べているのも、このことを指している。
台湾人が見た日本の台湾統治の特徴は次の3点である。
第1に、日本は法律を尊重し、法律に従って統治をおこなった。
第2に、日本は住民の教育に熱心であった。ために、台湾人は日本語を通して、世界の近代文明を吸収することができた。
第3に、日本は、台湾への資本投下と技術移転に積極的であった。
(岡田、p.117)

上述のこがもあって、李登輝をはじめとして、台湾人には親日的な人が多い。
ただ、ここで留意すべきは、その親日も「比較親日」であることも多いいうことである。台湾人は、独立国をつくったことがなく、オランダ、清朝、日本、国民党に統治されたが、これらのなかで日本の統治が格段によかったので、それが親日感情につながっている。特に賄賂や踏み倒し常習の外省人役人、軍人は、賄賂を取らなかった日本時代の警察官、公務員と比較された。2.28事件の発端もこのようなところにあった。このように、台湾人の親日は、反国民党の裏返しとしての親日であることも多いことが特徴である。また、日本語をしゃべる台湾人は、日本のことを日本人には、礼儀上、よくいうものであることも認識しておいた方がよい。
岡田は台湾文化は、基本的に日本文化だという。台湾は、1895年から50年間日本の統治下にあった。それ以前に台湾国はなかった。清朝の領土であったときも、実質的な統治はなく、台湾独自の文化はなかった。「台湾人が台湾人としての性格をもつようになったのは、日本時代なので、それは明らかに日本人としての性格なのです。台湾文化というのは、基本的に日本文化なのです。」(岡田、p.48)
50年間の日本時代に、法治社会のなかで近代的経験を積み、社会、家族への良識をはぐくんでいった。これが戦後万人身勝手の大陸からやってきた人々との大きな違いとなった。日本のあと、国民党が50年支配し、中国の文化を押しつけた。その意味で、台湾人は、まず日本人でもあり、そのあとで中国人でもあるようになった。

8 李登輝の読書歴


さて、李登輝は、1923年台北の郊外で生まれた。父は警察学校を卒業し、警察に勤め、のち県会議員となった。当時は警察学校出の警察官はエリート層に属した。母は、村長の娘であった。李登輝は中学生の時すでに鈴木大拙を読み、『臨済録』をひもとき人生の指針としていた。さらに『漱石全集』、阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三『出家とその弟子』、『古事記』、『玉勝間』、『源氏物語』『枕草子』『平家物語』の愛読者でもあった。
1940年李登輝は台北高校に入学した。1学級40名の中に台湾人は、4~5人のみであった。英語、ドイツ語、バイオリン、剣道をよくした。のちに博学、多趣味の総統といわれるのも、全教科型の勉強を続けたことによることが大きい。特に剣道で、「忍耐、正確、迅速」を体得したことがその後の人生に大きな影響を与えたといわれている。この当時の愛読書は、西田幾太郎『善の研究』、和辻哲郎『風土』、中野好夫『アラビアのロレンス』、アインシュタイン『物理学はいかにして生まれたか』、『ファウスト』、『若きウェルテルの悩み』などで、岩波文庫だけで700冊以上も所有していた。(李登輝、1999、pp.23)もちろん中国の文学と思想に関する書も読破していた。
1942年8月台北高校を繰り上げ卒業し、同年10月京都大学農学部農業経済学科に入学した。農業経済をめざすようになったのは、農村の小地主のせがれに生まれ、早くから農業問題の矛盾に疑問を抱いていたからであり、また高校時代の若い日本人の先生の影響だという。卒業論文は、『台湾の農業労働問題の研究』であった。京大時代は社会主義関係の書物を読みふけった。『資本論』も繰り返し読んだ。ただ、ヨーロッパのマルクス主義者のアジア停滞史観には疑問を感じた。
その後も日本語の書物には目を通しており、中村雄二郎の著作はほとんど読了し、後年『哲学の現在』は中国語にみずから翻訳した。西田幾太郎も座右に置いているという。(『朝日新聞』990217)「私は、いまだに一生懸命に勉強を続けているが、先に述べたように一番多く読むのが日本の書籍なのである。それはなぜかといえば、日本には非常な深みがあり、それが本の中に集約されているからだ。アメリカの本をもっと読んでいいと思うのだが、私はどうしても日本の本を読書の中心に据えている」(李登輝、1999、p.150)
京大には1年2ヶ月の在籍で学徒出陣で駆り出された。1944年、陸軍に入隊後、台湾で訓練を受けるために台湾行きの船に乗船するはずのところを仲間と共に見逃してしまったが、その船は米軍に撃沈された。李登輝の強運伝説が誕生するいわれとなった事件である。陸軍予備役士官教育を受けるため台湾から千葉県に送られるが、実戦を体験することなく、陸軍少尉として敗戦を迎える。
このとき、22歳の李登輝は、他の台湾人と同様日本人から中華民国人となった。1946年、台湾に戻り、台湾大学農学部農業経済学科3年に編入した。当時の台湾は、日本の法治時代から国民党の無法時代に移ったばかりであった。国民党軍は政権をとったばかりで、兵士や官吏の無法貪欲が横溢し、社会は混乱、治安は悪化の一途をたどっていた。この年1946年に、母と祖父を亡くした。