2012/04/28

李登輝と台湾の民主化: 第2章 国民党時代の台湾


第1章 西欧、清、日本統治下の台湾

第2章 国民党時代の台湾


1 2・28事件と蒋介石


1947年2月28日、国民党が台湾人を虐殺するという2・28事件がおこった。大陸からやってきた国民党の軍人、官吏は盗賊のように掠奪汚職の限りを尽くし、日本教育を受けた知識人を根絶するかのように28000人を逮捕殺害した。以後蒋介石とともに大陸から台湾に渡ってきた外省人が、蒋介石・蒋経国父子二代にわたる国民党政権下で台湾を支配し、人口の9割を占める台湾生まれの本省人は被支配者の地位におとしめられた。
この事件がふたつの人種を以降敵対関係に置いた。本省人と外省人の「省籍矛盾」、台湾問題の根源はこの事件に起因する。李登輝も「読書会」に参加したことで共産主義者との疑惑をもたれることになった。当時は読書会に参加していただけでも見逃されることはなかったのだが、よほど強運であったのであろう。
ここで、蒋介石について言及しておく。
蒋介石は、1887年に上海に南接する浙江省にうまれた。号は中正である。台湾の空の玄関口である中正機場や、中正大橋とか中正路は蒋介石の号にちなんで命名されたものである。9歳の時に父を亡くした。封建的な田舎における寡婦の生活は悲惨で、蒋介石が青年期に革命運動に走るのは、このような体験があったからだといわれている。早熟利発で10歳までには詩経を読破していた。(保阪、pp.11-12)
日本の陸軍士官学校に留学もした。のち孫文の信任をえて、38歳で黄埔(こうほ)軍官学校校長となり、軍の実権を握り,国民党内の地位を高めた。共産党の周恩来、葉剣英、国民党の汪兆銘、胡漢民、戴季陶、何応欽なども教官であった。1917年、孫文の後継者の地位を固めるべく孫文夫人の妹宋美齢と結婚した。蒋介石にとって3回目の結婚で、これは事実上孫文の後継者となる儀式でもあった。時に、蒋介石41歳、宋美齢27歳であった。蒋介石はのちにクリスチャンになるが、これは宋美齢の影響によるものであった。長男は最初の妻との間に生まれた蒋経国である。同士の軍人と日本人女性の間に生まれた子供を次男にした。蒋緯国である。
蒋介石は、1940年天皇の放送がある1時間も前に以下の声明を中国国民と兵士に向けてよみあげた。

「…。われわれは仇に報復を加えてはならず、敵国の罪なき人民に侮辱を加えてもいけない。彼らが軍閥によって愚弄され、欺かれていたことに同情し、自ら誤りと最悪から脱出するように反省すればいい。もし今まで敵がわれわれに暴力をおこなったからといって、それに暴力で報いたなら、さらに彼らが優越感でわれわれを辱めたように、われわれもまた彼らを辱めたならば、それは怨みをもって怨みに報いることになり、それは永久に続くことになる。それはわれわれ仁義の士の目的とするところではない。…。」
(保阪、pp.234-235)
上の声明に基づき、第2次大戦後、蒋介石総統は、日本に対し次のような「以徳報怨」の政策をとった。
1 天皇制度の維持
2 ソ連による分割の防止
3 中国大陸に残留する日本軍民の迅速送還
4 戦争賠償請求権の放棄
この「雪中送炭」の実行によって、日本は敗戦の瓦礫の中から迅速に復興した。(連戦、p.13)
蒋介石は、台湾を統治するようになっても、日本人将校に国府軍将校の軍事教育を委嘱し、聴講することもあった。1954年米華相互防衛条約がむすばれ、米国側は日本人将校を解雇するように迫った。しかし、蒋介石は次のように言って、拒否したという。「あなた方がわれわれを見捨てたときに、日本人の元将校たちは生命の危険を顧みずにわれわれを助けに来てくれた友人である。私の存命中はいかなることがあっても、彼らを追い返すわけには行かない。」(保阪、p.264)。本省人にとっては、どうであれ、日本人にとっては、何よりも日本の分割を阻止してくれた恩人であることは銘記すべきであろう。

2 外省人


ところで、支配者となった外省人とは戦後国民党と共に台湾に移民した大陸出身者とその子孫のことである。外省人には、2種類ある。統治者としてやってきた特権階級と国民党兵士としてやってきた下層階級である。出身地域は、上海市、浙江省、江蘇省の出身者が多い。とはいえ、各省の出身者を含むため、共通語は北京語である。しかし、すべての者が北京語に堪能であるわけではない。というのは、一口に外省人といっても、旧満州から入台した者もいれば、チベット人、モンゴル人、ウイグル人などの少数民族もいれば、本省人の故郷である福建や広東から入った者もいるからである。
戦前においては、中国では標準語教育がなされていなかったので、各人の言語差は今よりはるかに隔絶していた。筆者の経験でも、もう20年前になるが、原住民は台北で日本語で買い物をしていたが、本省人でも日本語で買い物をする人、上海語を常用する人、たどたどしい北京語しかできない者などを実見した。北京語を話したとしても、外省人の出自が中国大陸全土にまたがるだけに、その北京語も実に様々である。
この「外省人」という言葉は、本省人には、国民党の権威政治の象徴であり、2・28事件で本省人を弾圧殺人した圧制者を意味する。外省人は自分から孤立している場合が少なくない。とくに眷村(けんそん、軍人村)で育った外省人に、危機意識があるためか、その傾向が強い。本省人からは「唐山人」、親しみまたは軽蔑を込めて「阿山」とよばれる。

3 戒厳令


外省人の国民党は秘密警察政治を台湾に持ち込んだ。親子、兄弟、親戚の間でさえ密告を奨励した。強権政治のもとで、台湾人同士は李登輝を迎えるまで互いに疑心暗鬼に陥っていた。国民は、国家安全局傘下の、憲政署、法務部調査局、警備総司令部、憲兵司令部、社会工作委員会から常時監視されていた。これらの組織は党と国家が混然となった党国不分の組織である。筆者はある年、日本在住の各国留学生にアンケートをとったことがある。なかに「尊敬する人」「常に読む雑誌」という項目があったが、10人以上いた台湾学生の答はすべて「孫文」「読者文摘」であった。常時相互監視体制は異国においても、しっかり維持されていた。
1948年5月、「動員乱時期臨時条款」が施行された。これは、共産党の反乱を平定するまでの間の特別条例ともいうべきもので、これにより総統および国会議員の任期が無期限となった。これが、蒋介石、蒋経国のの統治権の盤石の礎となった。この条款が廃止され、国会議員が引退するのは、43年後の1991年である。同5月、蒋介石が総統に就任した。このあと、1949年から世界一長い戒厳令の時代、白色テロ(体制側のテロ)の時代が38年間続く。
戒厳令は、反体制者を法的手続きによらず処罰することができる便利な道具であるので、国民党は38年にもわたってこれを敷きつづけた。戒厳令では、デマ、ストライキ、暴動、金融破壊、財物強奪、学生運動、交通破壊などの関係者を死刑にすることができた。ふつう、戒厳令は、通常は巨大災害などがおこったとき一時的に特定地域にのみ布かれるものである。
この間、李登輝は悶々としながらも、黙々と勉学に励んだ。1949年には結婚し、台湾大学を卒業した。卒業と同時に同大学農学部助手に採用された。大学生活は、京大入学から数えて足かけ7年におよんだ。

4 李登輝、日本、台湾、アメリカを体験


1950年1月、米国は国民党の腐敗を非難し、台湾の帰属は中国の国内問題だとする台湾海峡不介入の声明を出す。これは、中国軍による台湾攻撃を座視することを意味し、台湾の緊迫が高まった。しかし、「幸運にも」朝鮮戦争が勃発し、米国は台湾海峡の中立化を宣言、第七艦隊による台湾海峡の巡航を開始した。
1951年には米国の軍事援助が始まった。これにより、台湾は西側陣営の重要な一員となり、世情は安定に向かった。
1952年、李登輝は政府の第1回留学試験に合格し、米国アイオワ州立大学に単身留学した。
1953年農業修士号を取得し、台湾大学に復職した。この「アメリカ留学を通じて、私には理屈だけを追求する人生には堪えきれなくなっていた。私はまさに信仰を必要としていたのである。」(李登輝、1999、p.34)そのため、『聖書』を隅から隅まで読み尽くし、勉強し尽くした。同時に、『論語』は、生への「否定の契機がないため、「生」への積極的な肯定だけが強くなる危険を孕んだ思想」であることにも気づいていく。
こうして、李登輝は、日本、台湾、アメリカの三つの「異なる文化の中の、異なる教育を一身に受け」た。かれは、述懐している。「わたしは今、こうした経験をさせてくれたものに感謝しなければならないと考えている。その意味で、わたしは幸福な人生をあゆんだのであり、その幸福は台湾のものでもあるべきであろう。」(李登輝、1999、p.18)この環境が李登輝を複眼思考、二枚腰、柔軟性の人に育て上げたのであろう。
李登輝は「アメリカ社会は、移民社会だということもあって、…住みやすく清清しいところが好ましかった」という。台湾も移民社会でアメリカ社会と似ており、いくつもの民族と文化の坩堝であり、無名の人間が大きな成功をしたり、また失敗しても誰も非難しない。台湾は、アメリカ社会に多くを学び、自由で開放的な部分、ダイナミックな活力を維持すべきだという。(李登輝、1999、p.76)また、日本が停滞しているのは、アメリカ、台湾とは逆に、世襲制、官僚主義がはびこり、旧套墨守であるからだという。(李登輝、1999、p.146)
1954年、台湾大学講師在職のまま、恩師の推薦で農林庁技師兼農業経済分析係長に就任した。農業経済学を机上から現場で実践することになる。
1957年、34歳で台湾大学助教授兼任のまま、米国の経済機関である聯合農村復興委員会の技正に就任する。
1961年、妻のすすめでキリスト教に入信する。
1964年、友人の台湾大学教授である彭(ほう)明敏が秘密逮捕された。李登輝は、前日彭明敏と食事をしたという。彭明敏は、1923年に台中に生まれた。関西学院中学部、三高、東大を経て台湾大学政治学科を卒業した。東大から李登輝と同時に台湾大学へ編入学した内地留学生で、台湾大学では李登輝の同期で親友であった。パリ大学で法学博士を取得した。1964年、台湾大学政治学科主任の時、「中華民国は唯一の中国」を標榜していた国民党政府に対して、「国家としての台湾の存在は事実」であることを主張した宣言を発表し逮捕されるが、1970年密かに亡命した。1992年、22年間の亡命生活ののち帰国した。
彭(ほう)明敏は、国民党には「黒金問題」があり、自浄は不可能であると主張する。事実、国民党は、黒(暴力団)と金(大資本家)と癒着しており、莫大な資産、利権を保持しており、これが台湾経済、市場の健全な発展を妨げている。また台湾経済が中国経済にオーバーコミットするのは危険だという。1996年の初の総統選には、民進党から出馬し、李登輝と対決した。

5 李登輝、コーネル大から博士号


1965年6月、米国は台湾経済の順調な発展を見て、経済援助をうち切った。台湾経済はこの年からテイクオフの段階にはいる。政府は、高雄加工輸出区を設立した。高雄加工輸出区はその後台湾経済発展の牽引車となり、開発途上国の手本となる。同9月、李登輝はロックフェラー財団とコーネル大学の奨学金を得て、コーネル大学博士課程に留学する。それまで、李登輝は聯合農村復興委員会につとめたが、芽が出ず鬱々としていたという。コーネル大学へは妻も呼び寄せての留学で、42歳になっていた。
1968年コーネル大学から農学博士号を取得した。ニューヨーク滞在中にキング牧師の暗殺事件が起こり、一つの覚悟をしたといわれている。つまり、この暗殺事件にひるむどころか、台湾の民主化のためならキング牧師の運命を甘受しようという覚悟である。帰国後、聯合農村復興委員会に復職し、台湾大学教授も兼任する。
1969年、コーネル大学へ提出の博士論文で全米最優秀農業経済学会賞を受賞した。これにより李登輝は、マスコミにも知られるようになり、ひいてはこれが政界へ転身の契機となる。
1970年、ニューヨーク訪問中の蒋経国(蒋介石の長男で、最高実力者)狙撃未遂事件がおこった。台湾特務機関は、李登輝の事件との関連を疑い取り調べをおこない、折からの李登輝のタイへの出張を禁じた。しかし、恩師である内政部長(内務大臣)などの奔走で、1971年には蒋経国に農業問題を報告することになり、かえって高い評価を得た。さらには、蒋経国お墨付きの国民党員になり、いよいよ政治家への転身の道を歩むことになる。
ただ、李登輝にとって国民党員になることは、一面うしろめたいことであったはずである。というのは、国民党は「抑圧と暴力の党であり、密告組織であり、友人が何を言った、何をしたと報告しなければならなかった」からである。(黄・金、p.143)そこでは「知情不報」(情報を知っていて、密告しないこと)は罪になった。

6 台湾、国連を脱退


1971年、中国は国連に復帰した。アメリカは1国両議席ということで、中華民国を国連に残そうとした。しかし、蒋介石は断固として「一つの国」論で反対し、台湾は国連を脱退した。台湾は、ここから国際社会で孤立の道を歩むことになる。
1972年2月、ニクソンが中国を訪問した。これは、ソ連を牽制するために、ソ連と厳しい対立関係にあった中国との友好をはかるためであった。日本は米国に追随し、中国と国交正常化をし、台湾とは国交を断絶した。このころ台湾人の日本政府への不信は激しく、訪台中の筆者(桑原)に「田中姓の日本人は台湾には入国させない」とタクシーの運転手にいたるまで怨嗟していた。
6月、国際情勢激変の中、84歳で病弱の蒋介石は、長男の蒋経国を行政院長(首相)に任命し、権力世襲の意向をあきらかにした。蒋経国は組閣に当たって、李登輝を農業問題担当の行政院政務委員(無任所国務大臣)に任命した。これは、人口の9割を占める内省人対策のためになされた人事で、蒋経国の台湾人積極起用第1号である。蒋経国は民主的、開明的なところを見せるために李登輝を選んだといわれる。李登輝はこのとき49歳であった。李登輝は、このあと6年間、聯合農村復興委員会顧問と台湾大学大学院兼任教授とをつとめる。
1973年、インフラの整備と産業の重工業化を目指す「十大建設」が開始された。李登輝は、「十大建設」の農業政策の責任者となった。
1974年12月、高砂族の日本名 中村輝夫が29年ぶりにインドネシアで救出された。しかし生還した中村輝夫をはじめ、台湾人元日本兵や軍属、軍票などに対する国交断絶後の日本政府の対応は冷淡無関心で、主体性がなく、裏切り、詐欺と感じる台湾人が多かった。台湾で戦争に駆り出された軍人は8万、軍属、軍夫は13万名、合計21万名であった。このうち死者は3万人である。これら死者、負傷者は、戦後日本国籍を失ったことを理由に何らの補償も受けられなかった。
その後、戦病死と重傷者にはわずか200万円が支払われたのみである。当時は日本兵であった兄をマニラでなくした李登輝も暗然たる思いであったに違いない。李登輝の兄、日本名岩里武則は今も靖国神社に祀られている。李登輝も、日本人であったから、小学校入学時から日本名、岩里政男を名乗っていた。

7 蒋経国時代のはじまり


1975年4月、蒋介石が逝去し、蒋経国が国民党主席に就任した。蒋経国時代のはじまりである。蒋経国は、1910年生まれで、1925年から12年以上もソ連に留学した。ソ連共産党員の経歴をもち、妻もロシア人である。秘密警察を担当し、反共主義者であるが、国民党を疑似レーニン党に仕上げるのに尽力した。国民党の性格は共産党と同じで、孫文の三民主義が全中国に実現するまで、革命を続ける革命政党であり、また党首に絶対的な権力を集中させていた。
1975年同4月、ベトナム戦争が終結し、台湾には衝撃が走った。というのは、北ベトナムの勝利は、当時の日本知識人には社会主義の勝利と写ったが、日本人には想像しがたいことであるが、台湾人には中国、共産主義によるによる台湾の武力併合と二重写しになったからであった。
ベトナム戦争当時の1964年、筆者(桑原)はベトナムのサイゴン(ホーチミン)に貨物船で行ったが、在住日本人は、ベトコンは北ベトナムだということをすでに断言していた。また、バンコクではタイの英字新聞は、激戦地に北ベトナムは、山岳少数民族を投入していると書き立てていた。北ベトナムには黒タイ、白タイなどのタイ族が居住しており、それらのタイ族も前線の戦闘に立たされていると記していた。1996年ハノイ郊外で訪れた黒タイ一家も、戦争に使役された同族の悲劇を語っていた。あとで知ったことだが、台湾のマスコミも同様の論調だったという。日本のマスコミとの情報格差があまりにも違うので唖然としたことを思い出す。
1976年、中国の文化大革命が終わった。この10年間中国は内乱状態で、台湾には無関心状態であった。台湾にとっては、朝鮮戦争につづいて、文化大革命という隣国の不祥事のおかげで経済発展への道を邁進することができた。ベトナム戦争と同様、中国の文化大革命に対する台湾マスコミの情報や分析も的を獲ていたものが多かった。毛沢東の私生活、愛人問題、また文革について、最近下に見るように出版物があいつぐが、これらの事柄は台湾では、すでに文革(1966-1976)の最中及びその後もに一般雑誌に掲載されており、筆者も台湾で実見した。

李志綏『毛沢東の私生活』文春文庫、1996.
京夫子『毛沢東最後の女』中央公論社、1996.
吉本隆明;辺見庸『夜と女と毛沢東』文芸春秋、1997.
太田清哲『中華帝国病と毛沢東の遺言』鳥影社、1997.
小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』中公新書、1997.
産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』扶桑社、1999.

1977年、中レキ(桑原:漢字に訂正→土+歴)事件がおこった。これは、桃園県長選で国民党が不正を画策し、これに怒った市民が警察署を焼き討ちし、銃で鎮圧しようとした台湾人軍隊に同胞意識を訴え、これを退散させた事件である。国民党の1党独裁白色テロ時代にある台湾兵士にも、台湾人意識が目覚めたことをしめすものであった。ついでながら、ふだんやさしい東南アジアの人たちが時にアモック(amok)状態になることがある。アモックはマレー語起源の英語で、東南アジアでは日常英語である。台湾人も時に激情し暴発するが、この事件は台湾人にも東南アジア的要素が流れていることの例証でもある。

8 李登輝、台北市長に


1978年、蒋経国が総統に就任し、李登輝は行政院政務委員(無任所国務大臣)のまま、台北市長に任命された。市政に専念するために、台湾大学教授と聯合農村復興委員会は辞任した。このとき55歳であった。李登輝は、誠・公・廉・能、つまり、誠実・公正、・清廉・能率をかかげ、市政の改革に取り組んだ。3年半の市政では、芸術、交通、福祉に尽力した。芸術活動の推進のために、ゲーテの『ファウスト』をみずから翻訳したりした。
1979年1月、台湾の唯一の頼みの綱である米国が中国と国交を正常化し、台湾は国際社会で孤立の度を深めていった。5月、李登輝家は長男の結婚式を、名士クラスにはめずらしく、内輪だけで質素におこなった。12月、李登輝は、中央常務委員に選出された。31名からなる中央常務委員は内閣閣僚よりも上位にある。党歴わずか8年での就任は異例のことである。
1979年12月、「美麗島事件」がおこった。反体制誌『美麗島』関係者が高雄で無届けの集会をおこない、反乱罪で一斉逮捕された事件である。『美麗島』関係者は、のちに民進党の中核をなしていく。このうち、黄信介、姚嘉文、施明徳、張俊宏、許信良が民進党主席となる。美麗島事件では、特務のやとったごろつきの挑発と国民党の弾圧によって失敗に帰したが、これ以降国民党は茶番劇を演出できなくされていった。というのは、下層の大衆がめざめ、中産層が政治舞台へ登場し、増加する台湾人党員をかかえた国民党の自己矛盾、アメリカの圧力、特務組織の実態の暴露などが国民党の暴走を許さなくなってなっていたからである。(林、p.259)

9 李登輝、台湾省政府主席に


1980年12月、台湾版シリコンバレー新竹科学工業園区が操業を開始し、台湾はハイテク精密工業の時代にはいった。3月、李登輝の長女が、マレーシア華人医師と、台湾上流階級には珍しく、国際結婚をした。この年には、選挙に出馬するための学歴制限が緩和された。これにより、皮肉にも台湾ヤクザの黒道(暴力団)にも政界参入の道が開かれた。台湾に反政府運動が起こってくると、国民党はこれに対抗するために金(財閥)と黒を利用するようになった。(早田、p.179)黒道は、県議員になると、名声の他に県の警察を監督できるので競って出馬した。
李登輝は、黒金を必要としないので、関係を絶つ努力している。しかし、長年国民党が築いてきた金権、ヤクザ、地方派閥の人間関係は強く、一朝には断ち切れないのが現状である。
1981年12月、李登輝は台湾省政府主席に任命された。58歳であった。この地位は、党主席、行政院長(首相)に次ぐNo.3の要職である。李登輝は政府主席として、農民の生活の改善に努めた。
1982年3月、 李登輝の長男が31歳で病没した。李登輝は、長男の遺児の養育のため、断酒、禁煙を実行に移し、信仰心をいっそう強めた。このころの人生計画は、60歳で退職後山地でキリスト教の伝道をおこなうことであった。しかし、息子の死で、李登輝には李家の後継者がいなくなり、政治的には、そのためにかえって蒋経国から野心のない政治家としての信頼を獲得し、とりたてられていくことになる。これには、行政能力もあるが、誠実寡黙、清廉潔白、無欲無私、政治家臭がなく、権力闘争とも無縁な敬虔なクリスチャンの学者ということも大いにあずかっている。さらに、両者共にかつてマルクス主義を学んだという近親感も関係があるかもしれない。

10 李登輝、副総統に


1984年3月、蒋経国と総統、李登輝が副総統に選出された。病弱な蒋経国が副総統に李登輝を選んだことは、内外を驚かせた。しかし、実状は、李登輝を後継者と考えていたのではなく、蒋経国に忠実な本省人政治家の育成をめざしたもので、いずれは使い捨てのつもりであったといわれる。蒋経国のまわりには大陸出身の総統府秘書長、行政院長、国民党秘書長、参謀総長、国家安全局長がおり、副総統にはなんの力もなかった。
1984年10月、「江南事件」がおこった。江南事件とは、国民党の内幕暴露で有名な台湾系アメリカ人作家江南が、サンフランシスコで国民党系のヤクザに殺害された事件である。江南は蒋経国が校長をしていた党幹部養成所の卒業生で、『蒋経国伝』(同成社、1989)で蒋経国のことを批判的にあらわした。のちに江南殺害の指令を下したのは、蒋経国の次男の蒋孝武であることがわかった。
1985年8月、江南事件の影響もあり、レーガン大統領は国民党に民主化を勧告した。民主化は、レーガンの勧告や米国議会有志議員や下院の委員会などからの国民党への圧力、一人当たりのGNP6000ドル以上の高所得国家になったことの自信、それに伴う権利意識のめばえによる。これ以降、台湾の民主化はさらに進み、民進党の容認(1986年)、戒厳令の解除(1987年)につながっていく。9月、李登輝は1983年の米国訪問、1984年の南ア訪問に続いて、7ヵ国を歴訪した。台湾要人のなかでは李登輝の外国訪問がもっとも多い。李登輝は度重なる外遊により、着実に外交実務と政策能力をたくわえていった。
1985年12月、蒋経国は、すでに蒋政権の命数を読んでいたようで、「蒋家からは後継者をださない」と語った。この公言の背景には長男は身障者で、次男は江南事件でアメリカでお尋ね者になったことも影響していた。後継候補の一人には、当然副総統の李登輝も入ることになるが、当時このことが実現することを確信する識者は誰一人としていなかった。
1986年9月、民進党が戒厳令下で党禁(政党結成の禁止)を無視して結成されるが、政府は黙認せざるをえなかった。実質、党禁の解除となった。

11 戒厳令、解除


1987年7月、38年間続いた世界でもっとも長いといわれた戒厳令が38年ぶりに解除された。かわりに、「動員戡
かん
乱時期国家安全法」が施行された。これは戒厳令を骨抜きにする法律であったが、もはや押し寄せる民主化の波をとめることはできなくなっていた。蒋経国は、「ここはやがて本島人のものになる」「私も台湾人だ」と公言した。
国民は、突然逮捕され、「監獄島」といわれる台東沖合の緑島の監獄に監禁処刑される恐怖からのがれ、やっと「自由」のありがたさを満喫できるようになった。緑島では「130人の無期懲役刑の受刑者のうち、20数人がすでに28年、10人が31年、3人が33年を獄中で過ごしていたのである。」(林、p.10)緑島監獄では本省人と外省人との差別待遇が横行していた。「本省人と外省人とが喧嘩した場合、本省人の方がかならず外省人よりも重い罰を受ける。もしも本省人が喧嘩を売ったとしたら、足かせをされて数ヶ月も隔離監禁されてしまうが、それが外省人ならば足かせは1週間ほどですみ、隔離されることもない。」(林、p.241)
1987年11月、中国旅行が解禁になった。党内の地位実質第3番目の李登輝は、対中国政策の制定にも参画し、中国旅行の解禁にも尽力した。

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第3章  李登輝の台湾

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