2012/11/15

言語の才人 ネフスキー(NK2012/11/14)

言語の才人 遺産は多彩
東洋学者ネフスキー生誕120年

 悲劇の東洋学者といわれるニコライ・ネフスキーが生まれて今年で120年。日本に深い関わりを持つこのロシア人の生涯と学問を、東京学芸大学の石井正己教授がつづる。
国際シンポジウムではネフスキーの功績などが話し合われた(10月3日)
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国際シンポジウムではネフスキーの功績などが話し合われた(10月3日)
 10月初め、ロシアの古都サンクトペテルブルクに出かけた。ロシア科学アカデミーが主催する「ニコライ・ネフスキー生誕120周年記念国際シンポジウム」に出席するためだ。東洋学に偉大な業績を残したネフスキー(1892~1937年)を慕い、ヨーロッパやアジアから60名を超える発表者が集まった。多彩な領域でまいた種が各地で花開き、一堂に会するような印象だった。日本からはネフスキー研究の先駆者、加藤九祚(きゅうぞう)の記念講演をはじめ、アイヌ研究の荻原眞子、沖縄研究の狩俣恵一らの発表があり、私は「ネフスキーの功績」について話した。
小樽商科大学提供
小樽商科大学提供
 ネフスキーは1915年にペトログラード大学派遣留学生として来日、29年に帰国するまで、14年半を日本で過ごした。折口信夫、柳田国男と知り合い、『風土記』『万葉集』『続日本紀』などの古典を読んで、古代に対する理解を深めた。その一方で、こうした人々が始めていた郷土研究から大きな影響を受けた。
口承の中の古代
 しかし、ロシア革命のために送金が途絶え、19年に小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に奉職、その後大阪外国語学校(現大阪大学)に赴任した。その間、真摯な研究は途絶えることがなく、金田一京助にアイヌ語、宮古の郷土史家、稲村賢敷(けんぷ)に宮古島方言を学び、昔話の採集家、佐々木喜善とオシラサマの研究を進めた。アイヌ民族の叙事詩ユーカラを精緻に記録し、3度の調査を重ねて宮古島方言を分析し、東北では盲目の巫女(みこ)が伝えるオシラ祭文を収録した。日本列島の口承世界に生きる古代を発見しようとしたのである。
東京学芸大学教授 石井正己
東京学芸大学教授 石井正己
 大阪に移ってからは東アジアへとさらに視野が広がった。中国に渡って辺境の民族が書き残したタングート語(西夏語)の資料に触れ、台湾のツオウ族を訪ねて言語調査を行った。文献と伝承を総合することで、前人未踏の東洋学を樹立しようとしたのではないか。それにしても、一人の人間がこれほど多彩な研究に取り組んだことは、奇跡としか言いようがない。
 実は、ネフスキーは言語学と音声学に天才的な才能を持っていた。さまざまな言語の微妙なニュアンスを聞き分ける能力があった。誰もが流暢(りゅうちょう)な日本語を話すことに驚いた。ロシア語の授業では、初対面の学生に出身地を聞き、それぞれの土地の方言で巧みに話しかけた。それでいながら、ロシア語の指導に入ると一切日本語を使わず、実に厳しいものだった。
 非常勤講師に行った京都帝国大学(現京都大学)でそうした授業を受けた一人に、後に日本の文化人類学の草分けとなる石田英一郎がいた。石田は著書『桃太郎の母』に、「この書をニコライ・ネフスキー先生にささぐ」という献辞を入れた。ネフスキーは日本の文化人類学にとっても大切な恩人だった。
未完だが最先端
 折口は『古代研究(民俗学篇1)』で、ネフスキーを「日本人の細かい感情の隈(くま)まで知った異人」とたたえた。多くの日本人に鮮烈な印象を残して帰国したが、やがてスターリンの粛清に遭って死んだという噂が入る。柳田は『大白神考』を発刊して、その人柄と功績をしのんだ。62年、『タングート言語学』が評価され、ソ連最高のレーニン賞が授与された。だが、日本人の妻イソとともに銃殺された真相が明らかになったのは、91年のことである。
 ネフスキーの行った研究はどれも未完成だが、時代の最先端を行くものだった。しかし、日本に残された資料は断片的であり、邦訳はわずかである。膨大な遺産は、まだ多くが埋もれたままにある。ロシア・日本・台湾・中国の連携による『ニコライ・ネフスキー全集』の刊行が切望される。このシンポジウムで各国研究者の報告を聞き、その必要性を改めて思った。
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