2014/11/11

川越の禅道場・養寿院の案内

※ 本稿は『川越の文化財』(第116号、2014年3月号)寄稿の「養寿院案内」を抜粋編集したものです。
2014年11月15日の養寿院研修に参考になることをねがってアップロードします。

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養寿院案内
静かにたたずめば、禅の雰囲気がただよう由緒ある禅道場 

NPO法人武蔵観研  会長  桑原政則

  養寿院(ようじゅいん)は、徳川家康も訪れた格式高い禅の道場寺院です。
隣接の菓子屋横丁も養寿院の所有地です。
観光寺ではないので、静かにふるまうことがしきたりです。
法事の時には、特段の配慮が必要です。



晋山式(しんざんしき)を挙行

  曹洞宗(そうとうしゅう)の養寿院では、2014年3月晋山式がおこなわれ、金剛清輝・住職が、祖父、父の法灯を継ぎ、誕生しました。晋山式とは、「山に晋(すす)む」こと、新住職就任の儀式です。養寿院にはそこかしこに新しい息吹が感じられるようになりました。
曹洞宗



付近には多くの寺が

  付近は北から、大蓮寺(だいれんじ)、見立寺(けんりゅうじ)、養寿院、長喜院、行伝寺(ぎょうでんじ)、少し離れて、妙養寺、蓮馨寺(れんけいじ)が並んでいます。
松平信綱は町割りで、養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺の門前町を、四門前町(しもんぜんまち)としました。
寺院群は、城を守るための自然の要害の役も果たしました。
敵兵も農民一揆の農民も、 天罰、たたりを恐れて寺院には近づきませんでした。

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不許葷酒入山門

不許葷酒入山門  

  山門の手前には、「不許葷酒入山門」(くんしゅ さんもんにいるを 許さず)との石標が立っています。
葷(ニンニク・ニラなどのにおい草)や酒を口にした者は、平穏を乱すので清浄な寺域に入るのを許さないという意味です。
養寿院は修業の場、道場です。

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かやの木

かやの木は養寿院の目印に

  山門のかやの木は、逗留した山伏、修験者が記念に植えたもので、いつしか宿泊もできる道場の目印になったようです。
「坊主、からたち、医者、山伏」が往時の川越の風景でした。
からたちは、今の永島家住宅に見られるように、武家屋敷の垣根になっていました。


養寿院は曹洞宗

  養寿院は曹洞宗(そうとうしゅう)で禅宗に属します。
「只管打坐」(しかんたざ、ひたすら座禅)を旨とします。
道元が中国から伝えました。
本山は、福井県・永平寺横浜市・總持寺の2カ所にあります。
駒澤大学、東北福祉大学、愛知学院大学、鶴見大学が系列大学です。


格式の高い養寿院

  養寿院は、江戸時代には御朱印寺として、幕府の保護を受け、川越城主にも帰依されました住職の養成所の役目も担い、多くの人材を輩出しました。
川越の72の寺院のうち、天台宗は23で最多、曹洞宗は22でこれに次ぎます。


スチーブ・ジョブスも座禅の修行

  養寿院が属する總持寺系は、国際普及に熱心です。アップルのスチーブ・ジョブスもシカゴの曹洞宗の禅寺で、心の拠り所を求めて、修行しました。
禅は「道(どう)」につながるようです。


徳川家康が立ち寄る

  1591年、徳川家康は鷹狩りの際に養寿院に立ち寄り、御朱印十石を授けました。川越では、養寿院は喜多院、蓮馨寺とならぶ御朱印寺でした。


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銅鐘

銅鐘は国の重要文化財

  本堂内の銅鐘は、1260年作で国指定重要文化財です。鎌倉の大仏の鋳造師のもので、鎌倉と川越の古くからのつながりを示しています。
この銅鐘は1244年に養寿院を開いた河越経重(つねしげ、河越重頼のひ孫)が寄進したものです。
銅鐘には、河越の嘉字(かじ)である「河肥」の文字が見えます。


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河越重頼の五輪の塔
河越重頼の五輪の塔

  本堂左奥には、河越重頼の五輪の塔があります。
河越重頼の妻は源頼朝の子・頼家を乳母として育てました
河越重頼の娘は源義経の妻となりました。

後年、頼朝は義経と仲違いします。
河越重頼は、義経の縁者ということで、命までも奪われました。
源氏と河越は深い関係にありました。

  ここの五輪の塔は墓ではなく廟所(びょうしょ、霊のまつり場)であり、また河越経重(河越重頼のひ孫)のものとの説も。
河越重頼の供養塔は、河越館近くの常楽寺にあります。


舩津蘭山の天井画

  本堂の天井画・雲龍図は舩津蘭山(ふなつ らんざん)作です。
舩津蘭山は川越藩の御用絵師で、川越城客殿の杉戸絵で有名です。
岸町の名主の家柄です。


堀川夜討の屏風絵図

  川越城主・酒井重忠が城内の堀川夜討(ほりかわようち)の屏風を養寿院に寄進したら、戦の悪夢におそわれることがなくなった、との話です。
堀川夜討は、源義経が京都・堀川の自邸を、源頼朝の命により、襲われた事件です。
川越城の七不思議の一です。


墓域= 岩田彦助、横田家、綾部家

  岩田彦助は、秋元喬知(たかとも)の城代家老で殖産に尽力しました。
墓石は亀腹の儒葬型です。

  横田五郎兵衛は川越藩の財政を支えた豪商です埼玉りそな銀行川越支店、松本醤油、料亭・山屋も敷地でした
横田家の墓から国・登録有形文化財の埼玉りそな銀行川越支店をのぞむことができます。

  綾部家は、柿本人麻呂の子孫とされています。
綾部利右衛門(あやべ りうえもん)は、初代川越市長です。
現・川越商工会議所会頭を30年続けました。
  墓域は故人をしのぶところです。見学でなく、お参りの気持ちで静粛におこなうのが礼儀です。

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円空仏

円空仏   
  円空仏(えんくうぶつ)は、素朴なほほみを浮かべた40センチ超の菩薩像です。
円空は江戸初期に諸国を遍歴し、10万体超の仏像をナタで彫りました。


台湾や中国の観光客は、養寿院を養老院と誤解

養寿院は「養老院」ではありません。
漢字のわかる外国人から誤解されることがあります。

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