2014/12/27

松本清張『黒い空』は、「河越夜戦」が舞台。#2



 「ここでいよいよ小田原北条家の登場です。鎌倉の北条執権と区別して史家は後北条とも呼んでいますな
 講師は、文章でいうなら章変り、講釈師なら張り扇を一つ叩くような調子で、肩を上げ、マイクを握りなおした。
 「両上杉はいつまでもマゴマゴしてはいられない。すなわち、大きな旋風が西のほうから襲ってきました。それがすなわち伊勢新九郎長氏で、のちの北条早雲です」
 婦人会員たちがうなずく。
 「時間がないので、有名な北条早雲のことは、残念ながら省略します」
 講師、またジュースを飲む。熱がしだいに入る。
 「とにかく北条早雲くらい人心収攬のうまい、人情を心得た、あるいはそれを利用した男も珍しいです。もとはといえば素性もわからぬ裸一貫の男、それが二百の農民兵をもって起ったのです。戦国時代は応仁の乱からではなく、北条早雲からはじまるという史家の説もあるくらいでしてな」
 オートバイの爆音がバスの横を駆け抜けて通った。
 「さて、あの暴走族のオートバイのように話の先を急ぐとしましょう」
 講師は、ジュースを飲んだせいで、額に出た汗にハンカチを当てた。
 「早雲は関東を握るには頼朝いらいの鎌倉を攻めねばならないと思い、三浦半島を押さえている豪族を攻めて、その日のうちに鎌倉に入りました。そのときが@@@八十一歳でした。両上杉管領も逃げ出したあとの鎌倉は荒れ果てて嘗ての面影はありません。早雲は玉縄城を築いて武蔵攻略の拠点とします。玉縄城はいまの大船駅のあたりです。ここにいくつかの支城もつくり、堅固なものにしました。あとは早雲の得意の調略で、武蔵国の根拠地にある両上杉を反目させ、古河公方を操り、政略結婚で手なずけるなどして上手に懐柔する。早雲が八十八歳で死んだのち、その子氏綱によって扇谷上杉の江戸城は落ちました。河越城も陥落しました。こうなると山内上杉もあんかんとしていられない。自分のほうが危なくなる。いろいろとあるうちに氏綱が死んで、氏康があとを継いだ。二十七歳の青年武将です。十六歳の初陣いらい、不敗の将です」
 講師はひち息入れる。
 「山内上杉憲政は、扇谷上杉朝定と手を握り、古河公方足利晴氏をも引き入れ、天文十四年秋、北条綱成が守る河越城を、八万の軍勢をもって攻め寄せました。けれども落ちません。綱成は籠城です。半年経って、翌年四月になって小田原城から北条氏康が八千の供回りの兵を率いて相模平野を急ぎ北上、多摩川を渡って、武州に入り、府中を経由して河越城近くに達しました。両上杉と公方連合軍八万、北条軍は八千、十対一。十倍の敵を前にして、氏康勝算ありや否や。……ここでその次第を詳しく申し上げます。面白うございますよ。この合戦。さあ、いよいよ河越の合戦。合戦じゃ。……」
 口がマイクに近づきすぎて、声が割れた。
 
 空にカラスが啼く。
 ――先刻からバスの胴体に身体をぴたりと押しつけるようにして、車内から流れるマイクの説明を聞いている男がいた。講師の話にうなずいたり首をかしげたりして、なかなか熱心であった。
 空にカラスの声が旋回する。五、六羽は飛んでいるらしい。
 ガア、ガア、ガア。
 啼き声がうるさくて講義がつづけられない。
 二十数名の男女参加会員はくすくすと笑う。思わぬ小休止に、アイス・ボックスから男性はビールの缶をとり出し、婦人はジュース缶の口を開く。
 「先生、お疲れさま。ま、お一つ」
 六十年配の痩せた長身の品のいい男がビールを両手でさし出したが、
 「や、これは恐縮。しかし、ぼくはいまお話をしている最中でして、あとで頂戴します」
 講師は遠慮した。
 そのうちカラスもどこかへ散って啼き声は遠のいた。
 「どうやら静かになったようですが、あのカラスはどこからくるのですか」
 講師は邪魔を入れるカラスのことをきいた。
 「このへんの森じゃないですか。カラスはどこにでもおりますから」
 婦人の一人が云った。
 「東松山か狭山あたりの山かもしれませんよ。秩父にはカラスが多いと聞きましたが、秩父はちょっと遠すぎますからね」
 男子会員が云った。
 「ま、とにかくカラスが帰ってくれてよござんした。では途切れた話を再開しますかな」
 「よろしお願いします」
 バスの胴体に身体をこすりつけて立っていた男も、マイクの声がふたたび流れ出ると知って聞き耳を立てた。鳥打ち帽を目深にかむった茶色の革ジャンパーにカーキ色のズボンの男だが、やや猫背であった。車内の一同は車体にヤモリのように吸いついている恰好のこの人物に気がつかない。
 「では、はじめます。さて、河越城を預かるのは北条方の勇将で黄八幡の異名をとる北条綱成、部下は三千。食糧を十分に蓄えて、山内上杉憲政、扇谷朝定それに古河公方足利晴氏の連合軍の攻撃にたいして半年間も籠城して、よく耐えました。北条氏康がすぐに救援に駆けつけられなかったのは、氏康が今川義元とことを構えていたからで、武田信玄も義元と連盟していました。北条の兵力の大部分をそっちの前線へ配備しておかなければならなかったのです。敵に河越城を囲まれてから半年も経ってやっと救援に出動したのは、信玄が義元と組んで駿河国安部郡に出兵して氏康を牽制したためで、氏康はそれにも防備をしなければならず、供回りの八千の兵しか連れて行けなかったのは、そんな苦しい事情からです」
 一同、手帖にメモする。
 「当時の河越城は現在の位置と変わりませんが、規模はおそらく三分の一くらい。だが、太田道灌の築城だけに要塞堅固、難攻不落の名城です。入間川と荒川が外辺を大きくめぐって流れ、内側を赤間川、いまの新河岸川ですが、その赤間川がとり巻いている。東南は湿地帯で、西北は草茫々の原野、攻めるは最も困難です。司令官格の山内憲政の陣はここから南にあたる砂久保の地に、扇谷朝定の陣は北なる東明寺橋付近、すなわち、みなさんがバスですわっていらっしゃる現在地のこのへんに陣地をかまえました」
 一同、バスの窓からあらためて外の景色を見まわした。
 「古河公方の陣地はどこだかわかりません。『関八州古戦録』とか『新編武蔵風土記』などの記事にも出てきません。しかし、いずれにしても三方から河越城を指呼のあいだに臨んだ陣地で、八万の大軍がとりかこんだ。北条綱成いかに鬼神とはいえ城兵三千にすぎぬ、籠城まさに半年、疲労困憊、落城は日に日に迫り来て、いまや風前の灯……」
 一同、バスのクッションから膝を乗り出す。
 「山内憲政の陣のある砂久保の南二里に達した籠城兵救援の北条氏康は、書を憲政に送りました。すなわち、城将綱成以下城兵の命は助けてもらいたい、さすれば河越城は進上するであろう、と。これを読んだ憲政はカンラカンラと打ち笑い、助命の願いなど聞かずとも城は明日にでもわれらの手で討ち取ってくれるわ、とアタマから相手にしません」
 「…………」
 「氏康は重ねて書を送り、そこを何とか曲げてご承諾のほどをと辞を低くして懇願し、誠意を示すために小田原寄りの府中まで軍勢を引き返しました。攻撃軍はこのありさまに、さすがの氏康も、八万のわれらに八千の少数では手が出ぬわい、あれ、あのとおりスゴスゴと逃げるわ、逃げるわ、とどっと嘲笑します。一方、府中に野営した氏康は、夜半になると兵を非常呼集した。その晩は曇天です。氏康は兵に松明を持たせず、重い鎧も捨てさせ、蹄の音やいななきを聞かれるのを恐れて馬にも乗せず、命じて曰く、敵の首は斬り取るな、首を斬るぶんだけ手間がかかる、敵兵は斬り捨てよ、と斬り込み隊を編成。足音を忍ばせ、河越へむかってヒタヒタと押し寄せたり。……」
 張り扇がトン、トンと聞かれそう。
 「こちらは管領山内憲政の砂久保の本陣、氏康勢が退却して、すっかり油断して熟睡しております。そこを不意に襲われた。なにしろ闇の中です。何が何だかわからぬうちに顔を切られ胸を刺され腹を突かれて、ばったばったと仆れる。恐怖のうちにも、名にし負う北条氏康の兵の来襲とわかると、もうパニック状態、阿鼻叫喚の血の池地獄です。氏康という男は戦闘のたびにみずから陣頭に立ち、そのため向こう疵のことを氏康疵といって将士が名誉としたくらいです。山内軍の主力は大混乱のうちにたちまち崩れて潰走をはじめる。大将であり、連合軍総司令官の上杉憲政、友軍の扇谷朝定部隊や古河公方部隊に知らせるどころか、領国の上州平井城、いまの藤岡市をめさして走り去ります。総司令官みずからが敵前逃亡ですから、ひどいものです」
 マイクの声はますます勢いに乗る。
 「これを暁闇の中に城内の物見櫓から眺めた北条綱成の籠城組、その望楼はたぶん現在も土塁だけが残っている富士見櫓でしょう。綱成、半年ぶりに城門を真一文字に開かせ、黄八幡の旌旗を押し立て三千の城兵で包囲軍の古河公方隊に向かって打って出ました。綱成も名にし負う猛将です。この側面からの攻撃を受けて、何条もって堪りましょうや、公方晴氏部隊も総崩れとなって、先を争い古河へと遁走いたしまする。……」
 一同、息を呑む。
 「最期はこの東明寺付近の扇谷朝定の軍隊です。氏康の斬り込み隊がこれに襲いかかる。砂久保の山内憲政部隊のパニックがこっちへまわってきたわけです。氏康勢は南の砂久保からまわって北へ現れた。で、ここもたちまち混乱状態。大将の扇谷上杉朝定は二十二歳の青年です。補佐役の勇将難波田憲重は東明寺の井戸に落ちて死ぬ始末。扇谷方は完全に潰滅です。その戦死者の数は計算ができない。ここに哀れをとどめたのは、朝定です。朝定が戦死したのはたしかにこのへんとわかっているが、いまだにその遺体のありかがわからない。それっきり扇谷上杉家は絶えました。江戸時代から明治時代の記録によると、このへんから四百体とか五百体とか、あるいは六百体の人骨が出たとあります。みんな扇谷方の戦死者です。……」
 講師は、しんみりとした声になり手を合わせた。
 「ヨーロッパでは一七世紀の三十年戦争で、ボヘミア出身の傭兵隊長ワレンシュタインとスウェーデンのアドルフ王とがドイツのリュッツェンというところで猛戦闘を行いました。負けたスウェーデン王の遺体は兵士の死骸の山の底からやっと見つけだされたそうです。けど、管領扇谷上杉朝定の死体はいまだに発見されないのですから、スウェーデン王以上の悲劇です」
 会員一同もまた合掌した。
 このとくき、ふいにバスの出入り口の外から声がかかった。
 「ああ、まことにけっこうなお話を承りまして、ありがとう存じました」
 これが不意のことだったので、バスの中の一同は、ぎょっとして開いているドアから昇降口の下を見た。そこにはハンティングに茶色のジャンパー、カーキ色のズボンといったこのへんのゴルフ場で見かけるような風采の男が、帽子のひさしにちょっと手を当て、小腰をかがめていた。
 「どうも失礼。いえわたしは、この近くの入間郡の百姓ですが、河越の夜戦については日ごろから疑問に思っていることがあります。どなたかにお訊ねしようもなかったのですが、いま先生のお話をはからずもそこで洩れ承りまして、もしお許しを願えるなら少々ご教示をおねがいしとうございますが」
 講師もとまどい気味でいる。
 「お見うけいたしますと、どうやらカルチュア・スクーリングの現地ご講演のご様子、みなさんにご迷惑でしょうが、ほんの一〇分ばかり、わたくしめにお時間を頂けますれば、ありがたき次第でございます」
 会員から拍手が起こった。
 「どうも、どうも。お許しをいただいて、お礼申し上げます」
 男はまた鳥打ち帽のひさしに手を当てて腰を折った。そのひさしに額の半分が黒い影になっている。日差しは強かった。
 「どういうことでしょうか」
 講師も仕方なしに昇降口の近くにきた。見知らぬ人を車内に入れる気はないようだった。
 「北条氏康の軍勢が、山内上杉の攻城軍の陣取る砂久保へ夜襲をかけてきたことはどの本にも書いてあります。通説でございますから、先生もそうおっしゃいました」
 男はステップの下に立っていた。
 「そうです」
 講師は上から見下ろして答えた。
 「しかし、それはすこしおかしいと思います。砂久保はいまでこそ住宅が建って新開地となっていますが、四百四十数年前の当時は、草茫々の原野のはずです。人家も飲料水もない。攻城軍八万のうち、主力軍を約四万五千とみて、両上杉軍の四万五千の兵がどうしてそんな原野に半年間も野営生活できたでしょうか?」
 講師は返答に詰まった。云われてみると、そのとおりである。自分はただ本に書いてあるとおりをしゃべったまでである。本の定説や通説をまるごと信じていた。疑いもしてなかった。
 「城を攻めるときは、それが長くかかると、対城を築くとか、寺院を臨時の軍営にするのが普通です。秀吉が小田原城攻めのときは、箱根の湯本に対城を築いたのは有名でございますな。ところが、河越城攻めには両上杉とも対城を築いてはおりません」
 鳥打ち帽の男は云った。
 「だから、わたしは、山内上杉軍も扇谷上杉軍も、古河公方軍もそれぞれ河越の町なかの寺院を占拠して、ここを対城がわりの陣営としていたと思いますよ」
 「どこの寺ですか」
 講師は気を呑まれて問い返した。
 「それはあとでわたくしの推定を申上げますけど、その前にお教えねがいたいことがあります」
 「はあ」
 講師は早くも要心の色を見せた。
 「それはですね、扇谷朝定隊のいるこの東明寺の陣地へ北条氏康勢が来襲したということでございますが、それは氏康軍が砂久保にいた山内憲政隊を破ったのち、足場の悪い赤間川、おっしゃるとおり現在のこの新河岸川でございますな、この川に沿って時間をかけて迂回し、北端の東明寺陣に達して扇谷朝定隊と戦い、これを潰滅させたのでしょうか」
 講師はまた詰まった。本にはそう書いてある。しかし、云われてみると、少数の氏康軍が二手に分散してそのような大迂回をして敵の圧倒的な大軍を各個撃破したとは考えられない。扇谷隊だけでも約三万はいたろう。公方軍は五千くらい。
 なるほど当時の赤間川沿いは、北にまわるほど湿地帯になっていた。暗夜の歩行。足を泥濘にとられての大迂回となる。少数の氏康手兵の斬り込み隊が扇谷軍の陣地到達に一瞬を争うときに、そんな愚かな各個撃破作戦をとるだろうか。
 定説、通説のまる呑みの講師は唸った。
 「わたくしが思いますに」
 男は謙虚な調子でつづけた。
 「氏康勢は、河越の南入り口と中央部、札の辻あたりを中心にしたあたりをかためた山内上杉軍を襲撃したと思います。山内軍は暗夜に不意を衝かれて大混乱、闇の市街戦を演じたものの、早くも浮足立ち、上州平井城さして潰走をはじめました。もし、四万五千の山内隊がもうすこし頑張っていれば、その背面にあたる北部の東明寺陣地に拠る扇谷上杉隊三万もあのような悲惨なことにはならなかったでしょう。だが、前面にあたる山内上杉隊、しかも主力であり、司令部の憲政軍が早くも敵前逃亡したのですから、そこは真空地帯になっております。その真空地帯へ、勝ち誇る氏康の率いる豆相の精兵八千の斬り込み隊が一直線に進撃して東明寺へ押しよせたからたまりません、扇谷隊はこれをモロに受けて全滅したのでありましょう。それでなくては、大将上杉朝定の戦死体がわからないという悲劇にはならないと思います」
 鳥打ち帽は一気に云うと、講師を見上げ、
 「先生、いかがなものでしょうか」
 猫背をかがめた。
 「ううむ」
 この男の云うほうが定説や通説よりも理屈に合っている。北条氏康の兵は河越の南から侵入、市内の中央に陣地を占める攻城軍の主力山内上杉隊を襲って市街戦を行い、これを大混乱に陥れて逃走させた。氏康軍は山内隊という大きな障害物をとり除いたので、そのまま市内を一直線に北上、市内の北端東明寺付近の扇谷上杉隊に殺到した。――なるほど、なるほど。これだと筋が通る。
 これまで読んだ「河越の夜戦」は、どうも曖昧なところがあった。質問されて、その矛盾に気がつく。記述が曖昧なのは、史料の不足のせいか、従来の歴史家の推論が充分でないためか、あるいは中央の史家が地方の地形に通じていないため、いい加減にお茶を濁してきた結果か。少なくともこの男の云うほうが、史家の説よりも科学的だと講師は思った。
 「まったく、おっしゃるとおりだと思いますよ」
 講師は昇降口の上から恭々しく頭を下げた。
 「いえいえ、そんなたいそうな者ではありません。百姓でございますよ。ただね、わたくしの先祖の家もこの旧東明寺村にありましたが、明治のころに畑を開墾するとき、白骨が二十体ほど出てまいり、それをきっかけに村役場の手で広く掘ってみるとよその土地からも合わせて四百体の白骨が出たと聞いております。みんな扇谷上杉方の戦死者だろうということになったおります。ま、そんなことが動機で、この土地の生まれですから、河越の夜戦に興味をもって、自分なりに考えてきたわけでございます。もちろん素人考えでございますが」
 「とんでもない。立派な専門知識です。やはり土地に通じておられるからですね。ところで、さきほど河越城を包囲した攻撃軍は半年間も砂久保などの原野に野営するわけはない、かならず市中の寺院を占拠して、そこを陣営にしていたはずと云われましたね。そのお説にも、眼を開かれました。これまで河越の夜戦で史家がすこしもふれてないことです。その寺院とは、どこでしょうか」
 「わたくしが思いますに、市内元町の養寿院でしょう。扇谷上杉軍はおの東明寺です。このとき東明寺は兵火に遇い、焼け落ちました。古河公方軍の陣営は喜多院だったと思います。公方軍は戦わずして古河へ逃げたのです。喜多院は九年前の天文六年に北条氏綱が幼主の上杉朝定が守る河越城を取るときの戦いで兵火にかかった堂宇が小規模ながら仮に再建されていたようです」
 「…………」
 「それにしても残念なのは山内憲政の行為、司令官のくせに戦場から逸早く離脱逃走したばかりに、この東明寺陣の扇谷軍はみなごろしに遇いました。しかも、先生のお話のように、二十二歳の若き君主朝定の遺体はいまだ知れず。おおかたこのへんの畑か土地の下に骸となって埋もれているか、発掘された何百という雑兵の白骨の中に混じっているのかもしれません。……南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」
 男は合掌した。
 「先生。ではこれで失礼します。みなさん、せっかくのところをお邪魔いたしました。お許しください」
 腰を大きく前に折ると、すたすたと東明寺橋のほうへ歩いて行った。
 カラスはもう啼かなかった

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<北条氏康>と<上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏>の戦い

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【武蔵=1546年4月20日】
北条綱成(つなしげ)の救援に出陣した北条氏康(うじやす)が、夜襲で扇谷(おうぎがやつ)上杉・山内上杉連合軍を大敗させた。扇谷上杉の当主朝定(ともさだ)は戦死。同家の滅亡がほぼ確定した。

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対戦者 北条氏康、北条綱成 VS 上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏

関東を支配する3つの勢力と北条氏の台頭

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