2016/10/24

タイ: プミポン国王を歌で追悼。 15万人が賛歌斉唱

タイ プミポン国王を歌で追悼 15万人が賛歌斉唱  NHK

NHK:
今月死去したタイのプミポン国王を歌で追悼する催しが首都バンコクの王宮前で開かれ、およそ15万人が参加しました。
タイでは70年にわたって国を治めたプミポン国王の死去を受けて、全国で追悼ムードが続いています。22日はバンコクの王宮前で国王をたたえる歌を合唱して追悼する催しが開かれ、タイ各地から集まった人たちは警察の発表でおよそ15万人に上りました。

黒い服を身にまとった人たちがプミポン国王の写真や国王の肖像入りの紙幣などを掲げて賛歌を斉唱し、中には涙を流しながら歌う人の姿も見られました。催しに参加した43歳の男性は「プミポン国王への忠誠を表すために来ました。国王は天から私たちを見下ろして、タイの人々がひとつになることを望んでいるはずです」と話していました。

この日の合唱の様子は多くのカメラを使って記録され、タイの映画館で上映前に流すのが慣例の国王をたたえる映像に加えられることになっています。

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タイ 異邦の王から国父へ
2016/10/23付 nk。 highlight

 13日に死去したタイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラマ9世)の治世は第2次大戦後の激動期に、予期せぬ形で始まった。

  絶対王制が続いたタイ。1932年の立憲革命以降、王室は脇に追いやられていた。終戦を機に、タイを取り巻く環境が新たな局面に入った46年6月9日の朝、実兄アナンタマヒドン国王(ラマ8世)が王宮の寝室で、額を銃で打ち抜かれているのが見つかる。同日夕、弱冠18歳のプミポン国王が跡を継いだ。

 事件の真相はいまも不明だ。新旧国王兄弟がよく銃で遊んでいたことが臆測を呼んだ。70年代に英国放送協会(BBC)との会見でプミポン国王は、誤射事故や自殺はあり得ないとしつつ、内外の「有力者」が捜査を封殺したと語った。

 治世早期は様々な意味で異邦の王だった。1927年の生誕地は米マサチューセッツ州。30年代初頭に母親に連れられスイスに移った。即位後もローザンヌ大学で学業を続け、バンコクに定住するのは51年から。即位後しばらくはタイ語よりフランス語を得意とした。

 国の発展と安定の要に王室を据えようと、国王を前面に打ち出したのは1957年のクーデターで首相に就いたサリット陸軍元帥だ。国民は次第に「国王は特別な徳を持つ」として信仰に近い感情を抱くようになる。32年の立憲革命で落ちた王の権威は復活し、国父と慕われるようになっていった

 自ら国内各地を訪れ、医療、教育、灌漑(かんがい)、少数派差別など、タイが抱える問題に直接触れた。55年にはチャクリー朝の王として初めて、「イサーン」と呼ばれるタイ東北部を訪問。王が主導した開発プロジェクトは数千件にのぼる。97年のアジア金融危機の後には、仏教の「足るを知る」考え方に基づき「充足経済」論を提唱した。

 政党による利権政治を嫌い、王制の持続を希求した。軍に対する姿勢は揺れたが、タイ政治にとって最も危険なのは軍の分裂であることも認識していた。32年の革命以来、クーデターは21回にのぼり、13回が成功しているが、クーデター成立に必要な国王の承認を拒否することはなかった。

 73年に軍が学生に銃撃を加えた際は軍事政権トップを国外に追放した。92年にやはり軍が民主派デモ隊に発砲した際は、軍トップを兼務する首相らを王宮で叱責し退陣させた。ただ、共産主義が東南アジアに広がってきた76年に、バンコクのタマサート大学で46人以上の学生を警察や右翼が虐殺した事件では、調停役も判官役も果たせなかった。

 タイ憲政史上最も民主的とされる97年憲法を支持した。信教の自由を重視し、仏教の国教化を避けるよう働きかけた。最長で懲役15年が科せられるタイの不敬罪を「問題」として、廃止を呼びかけたこともある

 21世紀に入りタクシン元首相派と都市部保守派の対立でタイは分裂状態に陥った。そんななか王妃、皇太子のほか、3人の王女を残し、88年の生涯を閉じた。

(Nikkei Asian Reviewアソシエートエディター ドミニク・フォルダー)

2016/10/20

東京から地方への流れを。 nk2016/10/20

東京から地方への流れを
2016/10/20付 nk

 列車に乗って地方を旅してみると、地方の疲弊ぶりが身に染みる。欧州旅行で感じる地方の美しさとは格段の差がある。

 とはいえ、日本の地方にはまだまだ見るべきものがある。伝統的な産業や食材も残されている。そんな魅力的な地方が壊れてきた背景として、次の3つを指摘しておきたい。

 1つは地方文化に対する誇りが薄れたことである。東京だけを見て、それに憧れ、自分たちの文化を蔑んできた。言葉への執着のなさが典型だ。

 しかし東京のどこが良いのか問い直してみよう。大枚をはたいて郊外に狭い家を買い、通勤地獄を味わいながら職場に毎日通うことが東京生活の最大の楽しみなのか。

 2つめはインフラの劣化である。地方の願いは新幹線が通ることとされるが、それが本当に地方を活性化させるのか。せいぜい県庁所在地と大都市を結ぶだけで、新幹線は地方の文化や経済を空洞化させているのが実態だ。新幹線への願いは「箱物崇拝」的である。

 地方の最重要課題は、住民が満足する生活を地方だけで完結できるためのインフラ構築である。在来の鉄道網の複線化やバス路線の維持、病院の整備などを指摘しておきたい。

 最後の1つは人口減少と老齢化である。これは日本全体の問題だが、衰退した地方から若者が都市部に流出し、それが地方の衰退をさらに加速させている。

 今後の日本の成長は海外需要に依存している。国内ではない。この事実は東京の価値を引き下げている。企業が東京に本店を置くのにこだわる必要はない。世界各地にアクセスできるなら、地方の拠点で十分だ。

 社員の生活や勤めやすさを考えれば、地方拠点に大きな価値がある。インターネットや情報処理技術の発展は、地方に住み、経済活動をするハードルを低くしている。物理的に移動せざるを得ない場合の交通インフラさえ整っていれば、大きな支障はない。

 地方活性化に向けて、政府には斬新な発想が求められる。地方へのインフラ提供とともに重要なのは、課税制度を使って東京から地方へ所得の再分配を図ることである。企業や個人が地方に経済的魅力を感じるようになれば、それが呼び水となり、人口が東京から地方へと流れる。

<大機小機(癸亥)

2016/10/17

カマクラ?ナラ? 外国人、地方の観光地を1割も知らず

カマクラ?ナラ? 外国人、1割も知らず 地方の観光地

nk 2016/10/17  highlighter

 米コンサルタント会社マッキンゼー・アンド・カンパニーが実施した米英などの外国人アンケートで、鎌倉や奈良など地方の有力観光地の認知度が1割に満たないことが16日までに分かった。

 政府は2020年に訪日客を2015年の2倍の4千万人に増やす方針を掲げる。だがマッキンゼーは海外経済の成長に伴う訪日客の自然増だけでは940万人不足すると試算。目標の実現には、地方を外国人に知ってもらう効果的な取り組みが必要だと提言した。

 アンケートは今年4月、米国・英国・オーストラリアの計1783人から回答を得た。鎌倉を知っているのは9%、奈良は7%、日光は5%、伊勢神宮は3%にとどまった。

 だがそれぞれの観光地を説明した後、「魅力を感じた」と答えた人の割合は34~42%に増えたという。

 マッキンゼー日本法人の桑原祐パートナーは「地方の観光地は全然知られていないが潜在的な魅力は間違いなくある」と指摘。この差を埋めれば東京、大阪、京都に偏る訪問先の拡大につなげられると強調した。

 具体的には外国人旅行者の視点を取り込んで国ごとの好みに合わせた観光PRをしたり、官民共同でIT活用や観光インフラの整備に取り組んだりする施策を挙げた。

アセアン。ASEAN。東南アジアのページ








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2016/10/16

アジアの企業と共に成長を <nk 社説

アジアの企業と共に成長を
2016/10/9 nk highlighter

 日米欧の先進国の景気がもたつくなかで、アジア経済の成長が目立っている。6~7%で伸び続けるベトナム、フィリピンを筆頭に、特に東南アジア諸国連合(ASEAN)の活力は旺盛だ。

 域内人口は6億2千万人と欧州連合(EU)を上回り、中間所得層が消費で内需を支えている。10カ国合計の国内総生産(GDP)は2030年までに日本を抜き、8兆ドルに達するとの試算もある。

 成長力の源泉は、地元の企業群だ。デジタル分野の技術革新や収益モデルの刷新に挑む企業の姿は高度成長期の日本を思わせる。

 日本はアジアの元気を見習いたい。バンコクで開いた国際会議「日経Asia300グローバル・ビジネス・フォーラム」は、自らの言葉で経営を語るアジア企業の経営者が目立った。用意した原稿を読む登壇者は皆無に近い。

 タイの最大財閥チャロン・ポカパン(CP)グループのタニン・チャラワノン会長は、技術や消費動向の変化への機敏な対応を強調した。「リスクをとれば、日本企業はもっと成長できる」との指摘は、内部留保をもて余す日本の経営者の耳に痛いのではないか。

 インドIT(情報技術)最大手タタ・コンサルタンシー・サービシズのナタラジャン・チャンドラセカラン社長は「デジタル化は経済の『非物質化』を意味する」と、伝統的なモノ作りからの発想転換を促した。経済の未来像を予見し、先手を打って投資する姿勢が勝敗を分けるのは間違いない。

 トップの指導力が強い一方、国有企業や財閥が幅をきかし、経営の情報開示が乏しいなど、新興国の企業には課題も多い。だが域内への投資が増えるにつれ、透明性を高める圧力が増すだろう。

 アジアの有力企業約300社を対象とする株価指数「日経アジア300指数」の公表が12月から始まる。アジア企業の実像を見定めるうえで役立つはずだ。日本とアジアの企業が経営を競いつつ公正で活気ある市場を築くことが、地域の長期的な成長につながる。

安定の支え失ったタイに必要な「国民和解」

安定の支え失ったタイに必要な「国民和解」
2016/10/15付 nk社説


 タイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラマ9世)が亡くなった。国民の敬愛をあつめ政治と社会の安定の支柱となってきただけに、これからのタイ情勢は心配だ。注視していく必要がある。

 1946年6月に18歳で即位した。立憲君主制に移行して15年もたっていないころで、体制は盤石とはいえなかった。実際、軍事クーデターと民政移管がくり返される不安定な状況がつづいた。

 そんななかで国王は政権に正統性をあたえる役割をになった。一方で、精力的な地方視察などによって多くの国民の心のよりどころともなった。70年あまりにおよんだ在位は、立憲君主制をタイに定着させたといっていい。

 カリスマ的な影響力を世界にみせつけたのは92年5月、政府と反政府勢力の衝突でたくさんの死傷者が出たときだ。双方の指導者を王宮に呼びつけ、ときの政権に退陣を命じて事態を打開した。

 63年に来日するなど多くの友好国を訪れ、タイの国際的な存在感をたかめた。インドシナで共産主義政権が相次いで生まれた70年代には、王制のタイが共産主義に対する防波堤となった。西側の一員となったことは経済発展に有利にはたらき、80年代からのめざましい成長につながった。

 この10年、タイはタクシン元首相を支持する勢力と反タクシン勢力の党派対立に揺さぶられてきた。混迷が長引きクーデターに発展した一因は、健康のおとろえた国王がかつてのように力強い調停役をつとめられなかったことだ。

 後を継ぐとみられているワチラロンコン皇太子に、プミポン国王のような求心力をすぐには期待できない。国民が精神的に動揺したり、服喪期間に経済活動が萎縮したりする心配もある。プラユット暫定首相はじめ軍事政権は悪い影響を抑える努力を求められる。

 大切なのは党派対立をやわらげる「国民和解」の取り組みだ。根っこにあるエリート層と貧困層の亀裂を修復する必要がある。

 それには幅ひろい意見を集約する民主主義の働きが欠かせない。来年にも総選挙を実施して民政に移管するという段取りを、着実にすすめなくてはならない。

 タイには4000社をこえる日本企業が進出している。中国がアジアの覇権を追う姿勢を強めるなか、日本にとって重要な外交パートナーでもある。タイの安定と民主化を手助けしていきたい。

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春秋
2016/10/16付 nk

 タイが経済危機に見舞われた1997年。その行く末をあれこれ論じているうちに、華僑の友人がつぶやいた。「この国のためには死ねないけれど、国王のためなら死ねる」。劇画のセリフのようだ、と内心で苦笑しながら、敬愛の念の深さに胸を打たれた記憶がある。

▼おなじころ、たくさんの外国人記者を前にアナン元首相がプミポン国王をたたえて口にした一言も、耳に残っている。「かれは最高だ」。いずれも英語だったから理解できたのだが、おそらくタイ語ならばもっと熱烈で、ずっと敬意にあふれた口ぶりになったのだろう。とにもかくにも、プミポン国王の人気は絶大だった。

▼カリスマは一朝一夕にできたのではない。政府の高官から聞かされたことがある。「われわれが知らないへんぴな地方の名前をあげて、以前はこうだったが今はどうか、と聞いてくる。あれほど地方の実情に通じた人は政府内にいない」。かずかずの地方視察をはじめ王としての職責に精励した姿が、国民を魅了してきた。

▼70年にわたってタイに君臨してきたプミポン国王が世を去り、心のよりどころをなくした人たちのことが思いやられる。やはり20年ほど前にバンコクの女性が語ったことばを思い出す。「国王が亡くなったら、この国を離れるわ」。ほほ笑みの国と呼ばれるタイだが、カリスマなきあとの不安感が漂っているようにみえる。

2016/10/15

<徳川家康の命日 6/1 家康なぜ嫌われる? 唐沢富太郎 < 徳川家康pg

家康なぜ嫌われる? 平和主義者、軍部の不評買い


 永田町で、政界きっての家康好きとして知られる、長妻昭 衆院議員を議員会館に訪ねた。事務所の壁には「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず……」でおなじみ、「家康公遺訓」が恭しく額に掲げられていた。

 「遺訓には『怒りは敵と思え』ともある。やみくもに怒らず、理不尽な社会・政治は許さない、という『正しい怒り』が肝要です。もっとも家康の境地にはまだまだ至りませんが……」

 長妻さんがほれ抜いた家康は、NHKの歴史情報番組「歴史秘話ヒストリア」(3月16日放送)で視聴者が選ぶ「好きな歴史上の人物ベスト5」では、
      1位=土方歳三
      ▽2位=織田信長
      ▽3位=伊達政宗
      ▽4位=石田三成
      ▽5位=毛利元就−−。
家康はお呼びでない。

 「うーん。信長や秀吉に比べると地味ですが、地道に人々の支持を得て、世界でもまれな260年の太平の世を築いた。これはすごいことですよ。家康のマニフェスト、ご存じですか」。家康は合戦で「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」と大書した旗を掲げていたという。汚れた現世を戦いのない浄土にしたい、という大意だ。

 「『何より大切なのは平和だ』というマニフェストですが、これをきちんと実現した。信長、秀吉の政権は結局、短命でしたし。派手な言動に走らず、地道に歩むことが大切です」と長妻さん、額を見上げながら、しみじみ説いた。

 その平和主義者の家康が嫌われるのはなぜか。歴史学者の小和田哲男静岡大名誉教授は「平和な世を築いたことが家康評を低くした要因かもしれません」と逆説的に説く。

 家康は秀吉の死後、「関ケ原の戦い」で豊臣家の天下を奪って江戸幕府を開き、さらに「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣家を滅ぼした。源義経や真田幸村らがヒーローになるように、判官びいきの日本人の情緒が家康嫌いを生んでいるという見方が一般的だが、小和田さんは「それだけではありません」と言うのだ。

 「明治以降の歴史教育のあり方の影響も大きい。家康は『平和主義者』ととらえられ、軍部などに評価されなかったのです」

 それを裏付ける900ページ超の大著「教科書の歴史」(56年)に行き当たった。教育史学者の唐沢富太郎氏が戦前の全教科書を精査した労作である。これによると、戦前の学校教育が最も重視した「修身」の国定教科書(03〜45年)に秀吉は12回登場し、明治天皇(22回)、二宮金次郎(18回)、上杉鷹山(15回)に次ぐ多さだった。これに対し、家康の登場はたった1回だ。秀吉の家臣、加藤清正ですら、11回も登場するのに、だ。

 「秀吉は『朝鮮出兵』を引き起こしましたが、対外膨張を目指していた戦前の日本にとって、秀吉は『英雄』なのです。大陸に攻め込んだ秀吉に続け、と。当時の軍国主義的風潮にも合致したんでしょう」と小和田さんはみる。家康は秀吉の対外膨張路線をやめ、朝鮮との国交を回復した。「この点が戦前の政府・軍部にとって理想の人物ではないし、何より英雄・秀吉の豊臣家を滅ぼしたのだから良く言われるはずがありません」

 尋常小学校の「国史」教科書(35年)でも秀吉は16ページが割かれるが、家康は12ページ余。徳川幕府への評価も「皇室を大切にせず、わがままなふるまいが多くなった……」と否定的な筆致が少なくない。

 歴史小説に詳しい文芸評論家、縄田一男さんも明治政府の影響を指摘する。「徳川を倒し、明治政府の権力を握ったのは、『関ケ原の戦い』で家康に敗れた外様の薩摩、長州両藩の人たちです。新権力者としても、家康や江戸幕府を悪者にすることが不可欠だった。その影響が今も大きい、と見るべきです」

 縄田さんは、家康の“名誉回復”がなされたのは50〜67年、東京新聞などに連載された山岡荘八さんの長編小説「徳川家康」がロングセラーになってからだと指摘する。「この歴史小説で家康は平和を求めた人物として描かれ、世の中の家康像が変わりました。でも、正当な評価にはまだまだですね」

2016/10/08

川越まつりの楽しみ方 【+10】

川越まつりの楽しみ方 【+10】 川越市チャンネル


お休みは「祭り茶屋」で

  • 10月15日・16日  10時~20時
  • 湯遊ランド1階 新富町1-9-1
  • (By coursety of) 祭り文化研究会、ホテル三光、NPO武蔵観研






川越まつりコラム

2016/10/07

『徳川時代の意義』 幕府と会津藩の関係語る

未来へ発信『徳川時代の意義』 若松で幕府と会津藩の関係語る
2016年10月07日  福島民友 highlighter 


 265年に及ぶ平和を築いた徳川時代を研究し、知恵や歴史的意義を未来に発信する「徳川みらい学会in会津」は6日、会津若松市で開かれた。基調講演や鼎談(ていだん)が繰り広げられ、市民ら約400人が徳川家と会津のつながりに理解を深めた。静岡県の静岡商工会議所、徳川みらい学会の主催、会津若松商議所の協力。

 みらい学会は徳川家康の没後400年を記念し静岡商議所が事務局となって2013(平成25)年に設立。これまで静岡県で活動してきたが、徳川ゆかりの地で学会を開こうと、静岡県外で初めて開かれた。

 1部は、同学会長・東大名誉教授の芳賀徹氏(85)が「徳川の平和」を演題に基調講演。徳川幕府が取り組んだ幕藩体制、外交政策、都市や農村の風俗画を例に、「徳川の治世は平和ゆえに円熟した文明が広がった。豊かな文化から平和を感じてほしい」と語った。

 2部は「徳川家に息づく会津の魂」をテーマに、徳川宗家18代当主の徳川恒孝(つねなり)氏(76)、会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)氏(62)、歴史学者・国際日本文化研究センター准教授の磯田道史(みちふみ)氏(45)が鼎談。幕府と会津松平家の関係、会津藩の武力や思想、教育などで活発な発言が飛び交った。

 徳川氏は「全国で会津だけは他と違う印象を受ける。会津の精神を守るため、子どもの教育に歴史を取り入れて」と求めた。松平氏は「『先人の遺徳を顕彰する』とは先人を学び、後世に伝えることである。子どもたちには会津藩の『什(じゅう)の掟(おきて)』を基にした『あいづっこ宣言』の精神を受け継いでほしい」と語った。

 徳川家と会津の関係は、2代将軍秀忠の子で会津松平家初代藩主となった保科正之から深まり歴代藩主が忠義を貫いた。18代当主の徳川氏は、幕末の会津藩主松平容保(かたもり)のひ孫に当たる。

2016/10/06

訪日客増へ観光競争力 ガイド資格など規制緩和


訪日客増へ観光競争力 ガイド資格など規制緩和
旅館はツアー販売しやすく
2016/9/18 nk highlighter

 政府は訪日外国人客を一段と増やすため、観光の規制緩和やインフラ整備を急ぐ。訪日客向けの有償ガイドを無資格でできるようにするほか、ホテルや旅館が地域を周遊する旅行ツアーを販売しやすくする。大型クルーズ船が寄港できる港湾の整備や、道路や鉄道の行き先表示の多言語化などにも対応。訪日客に日本での楽しみ方を増やす狙いで、2017年に集中的に実施する。


 訪日客は15年度に2000万人を突破した。
政府は20年に4000万人にする新目標をたてた。
ただ客数は世界的な景気の動向や為替相場にも左右されやすく、足元で伸びがやや鈍っている面もある。規制緩和とインフラ整備の両面で訪日客の取り込みをはかる。

 通訳ガイドの拡充はその柱。通訳案内士という国家資格がないと、有償のガイドができない。事実上の業務独占となっているため、資格を持たない人でも訪日客からお金をとってガイドできるようにする。観光庁の検討会で詳細を詰め、16年度中に法改正案を国会に提出する。

 現在の通訳案内士は、英語の通訳が7割を占め、4分の3が大都市を拠点に働いている。今後も通訳案内士という国家資格は残すが、事実上無資格で案内できれば、英語以外の言語の使い手がガイドになったり、地方限定で観光地を案内する人を増やしたりできそうだ。観光庁は訪日客の安全のため、悪質なガイドが増えない仕組みづくりも検討する。

 規制緩和策として、地域を限ったパック旅行や体験ツアーも売りやすくする。ホテルや旅館が地元の名所を巡るなどの旅行商品の企画・販売をするには旅行業の登録を受ける必要がある。営業保証金や基準資産といった登録要件が厳しく、参入業者は限られていた。観光庁では観光業界の要望をもとに要件を緩和し、簡単な手続きで旅行企画を売れるようにする。17年までに必要な法改正案を提出する。

 訪日客の増加に伴いトラブルも多発している。宿泊や運送手段を手配するランドオペレーターと呼ばれる業者が、利益優先で質の低い旅行商品を販売。観光庁は業者を登録させて実態を把握し、指導・監督の制度を整える方針だ。旅行業者の適格性や関連商品の品質確保にも力を入れる。

 訪日客が観光しやすいインフラ整備も課題
国土交通省は高速道路に路線番号をつけ、外国人でもレンタカーで周遊しやすいようにする。外国人のクルーズ船利用に対応し、貨物用の港に入国審査の施設をつくる規制緩和も検討中だ。

 国連によると、国際観光客は毎年5%程度増えている。だが、日本の観光規制は60年以上前につくられ、時代の変化にあわない。政府はより深く日本を知り、日本の生活習慣や伝統に触れたいという訪日客のニーズにきめ細かく対応する。

群馬県出身の角田柳作、日米史に足跡。コロンビア大で日本学

センセイと慕われた日本人 群馬県出身の角田柳作、日米史に足跡

角田柳作らの尽力により、日本関係の書籍約33万冊を所蔵する米コロンビア大C・V・スター東亜図書館=2月(共同)
写真
 一九二〇年代から六〇年代に米ニューヨークのコロンビア大で「日本学」を教え、ドナルド・キーンさん(94)ら一流の研究者を育てた日本人がいた。県出身の角田柳作。「センセイ」と呼ばれ尊敬を集めた角田は、日本ではあまり知られていないが、日米の相互理解を深める上で歴史に大きな足跡を残した。
 県立土屋文明記念文学館(高崎市)は十二月十一日まで、角田の業績を振り返る特別展を開催。十六日にはキーンさんの講演も予定されている。

◆米国に初の研究所

 「コロンビア大学で『センセイ』といったら、角田柳作先生のこと」。キーンさんは六二年、日本の月刊誌に「ニューヨークの一人の日本人」と題する随筆を寄稿して角田を紹介。未知の日本思想を教わることでいかに知的な刺激を受けたかを、角田への温かい敬意を込めてつづった。
 角田は津久田村(現渋川市)出身。福島県や宮城県の中学で教壇に立った後、ハワイで日系人が学ぶ中学の校長を務めた。さらに米本土へ渡り、コロンビア大などで学んだ。
 角田は米国で、日本に関する研究が中国研究と比べ遅れていることを残念に思った。二七年に帰国して資金や書籍を集めるなど奔走し、二八年にコロンビア大に米国初の日本文化研究所を設立、所長兼日本文化講師に任命された。しかし四一年に始まった太平洋戦争では「敵国人」として一時拘束されるなど、日米史の荒波にも翻弄(ほんろう)された。

◆熱心な指導、学生を魅了

 角田が教えた「日本学」は日本の歴史、宗教思想、古典文学などを網羅していた。コロンビア大のジェームズ・モーレイ名誉教授(政治学)も影響を受けた一人だ。
 太平洋戦争中、モーレイさんは首都ワシントンで日本海軍の暗号解読に従事した。「艦船の位置を割り出し、船を沈める手助けをした。気が重かった。二度と戦争はごめんだと思った」。終戦後、日本について学ぼうとコロンビア大に進み、角田に出会った。
 角田は温厚な人柄と講義への丹念な準備、熱心な教え方で学生を魅了した。「圧倒された。センセイは私に最も大きな影響を与えた一人だ」
 九十七歳になる今も、コロンビア大で東洋思想の講義をするセオドア・ドバーリ特任教授も「センセイは非常に穏やかで静かな人だった」と振り返る。ドバーリさんとキーンさんが角田の講義録を編集した上下二巻の「日本思想の源泉」は、米国の多くの大学で日本文学の教科書として使われた。
 コロンビア大は六二年、角田に名誉文学博士号を授与。角田は老後を日本で過ごすため住み慣れたニューヨークを六四年に離れたが、帰国途上のハワイで病に倒れ、帰らぬ人となった。(ニューヨーク・共同=尾崎元)
<角田柳作> 1877(明治10)年1月生まれ。東京専門学校(現早稲田大)文学科卒。1903~09年福島県立福島中学校と宮城県立仙台第一中学校で英語と修身を教える。09年本願寺ハワイ中学校長。17年にニューヨークに移り、28年コロンビア大に「日本文化研究所」を設立。60年勲三等瑞宝章。62年コロンビア大から名誉文学博士号。64年11月、ハワイ・ホノルルで急性肺炎のため87歳で死去。(ニューヨーク・共同)

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  1. Columbia University   (日)
    Columbia Japan Society
    Ryusaku Tsunoda   角田柳作の基層  角田柳作 教え子はドナルド・キーン

2016/10/05

大隅良典「オートファジー」でノーベル賞。がん。アルツハイマー。脂肪肝。糖尿病。【動画】

大隅良典「オートファジー」でノーベル賞。がん。アルツハイマー。脂肪肝。糖尿病。 


時論公論:オートファジー:ノーベル賞 大隅良典・東工大【細胞の寿命】

※オート ファジー(Autophagy) 自食(しょく)作用
「自分」を「食べる」こと。ギリシャ語。
オート ファジーにより、がん、アルツハイマー、脂肪肝、糖尿病などがなおるとも。
絶食をすると、オート ファジー効果で老廃物が分解され、細胞が若返るとも。


大隅良典  ウィキペディア


2016/10/03

「もんじゅ」が廃炉について、田原総一朗

http://blogos.com/article/192562/ 2016/10/3 田原総一朗

「もんじゅ」の廃炉が決まりそうです。

「もんじゅ」とは、福井県敦賀市にある
研究用の高速増殖炉のことだ。

この高速増殖炉は、ずっと「夢の原子炉」と言われてきた。

燃やした「燃料」を再処理して、原発の燃料として再使用することで、
際限なく循環させることができるからだ。


日本はエネルギー資源に乏しい国だ。
だから、高速増殖炉は日本の原子力行政が
始まった1950年代から、
「国策」として位置づけられてきた。

「もんじゅ」はその研究開発用の原型炉で、
1994年には初臨界に達している。

しかし、その後の経緯は、はっきり言って、
お粗末としか言いようがない。

1995年にナトリウム漏れ事故が発生する。

しかもその事実を、当時、運営母体であった
動燃(動力炉・核燃料開発事業団)が
隠蔽していたのだ。

それだけではない。
事故の様子を撮影したビデオの一部を隠し、動燃の担当者が自殺するという悲劇も生んでいる。

その後、もんじゅは運転を休止するが、
2010年に試運転を開始。

だが、今度は部品の一部が落下し、
またも運転休止となった。

2012年には原子力規制委員会が、
規定に基づく機器の点検漏れが9679個もあったと発表した。

約1兆円もの国費を投じながら、
こうして、もんじゅの失態は続いてきた。

結局、運営の受け皿が見つからず、
廃炉を含めた開発の見直しが行なわれることになった。
技術的なことはさておき、あまりにもひどすぎる結末と言えよう。


僕は2年前に、当時の文科大臣だった
下村博文さんや担当の官僚に
「もんじゅ」について取材している。
当時、下村大臣は
「もんじゅの稼働を目指す」
と明言していた。
しかし、その言葉に僕は正直、現実味が
感じられなかったのだ。

原子力規制委員会は、
もんじゅの新たな運営母体である
日本原子力研究開発機構が
点検を怠ったのを重大な規定違反だとして、
点検計画のやり直しを命じていた。

つまり、原子力規制委員会の安全確認を
クリアしないと動かせない。
そんな状態で1、2年での再稼働の
見込みはないと思ったのだ。

もうひとつ縦割りの弊害もあった。
「もんじゅ」は文科省の管轄だ。
一方、原発などは経済産業省の管轄だ。
この縦割りの弊害も大きかったのでは
ないかと僕は思っている。


「もんじゅ」の廃炉は当然だと思う。
だが、では日本にすでに溜まっている
1万7千トンもの使用済み核燃料を
いったいどうするのか。
その処理問題を置き去りにして、
原発の再稼働をするのは
やはり無責任というものだろう。

フランスとの技術提携で、
新たな高速炉の開発もしているようだ。
しかし、もっと真剣に向き合ってほしい。
お粗末すぎた「もんじゅ」の運営は、
日本の原子力問題の象徴と言っていいのだ。

2016/10/01

『文明の生態史観』で知られた梅棹忠夫さんは…

『文明の生態史観』で知られた梅棹忠夫さんは…
 世界日報  2016/9/29  highlighter

 『文明の生態史観』で知られた梅棹忠夫さんは、晩年の2006年11月、大手前大学で開かれた比較文明学会で、後学の川勝平太、小林道憲、安田喜憲の3氏からその史観を批判された。

 3人のパネリストに共通していたのは、文明は独自にではなく、交流によって発展したというもの。梅棹さんは時の流れを痛感し、批判に耳を傾け、賛辞を送って彼らの見解を受け入れた。

 小林さんの『文明の交流史観』には、紀元1、2世紀、古代ローマによって確保されたインドとの通商関係が描かれている。同じころ漢も南シナ海からマレー半島を経てインドに至る南海貿易ルートを確保

 この海のシルクロードは陸のそれよりもっと繁盛していたようで、南インドの諸遺跡からはローマの金貨が大量に出土。各地にはローマ商人の居留地があり、彼らはさらに南シナ海を北上して漢まで達していた

 古代南海貿易の実態を伝える史料の一つに、1世紀半ばにギリシャ語で記された『エリュトゥラー海案内記』がある。訳者の村川堅太郎さんの解説によると、インドで出土したローマ貨幣は帝政以降のもの。イエス・キリストの時代だ。

 ところで先日、沖縄県うるま市の史跡「勝連城跡」から古代ローマの貨幣が出土したと発表された。4世紀半ばのものという。いつ、どのように持ち込まれたか分からないが、東西文明交流の道はここまで来ていたのだ。

ユーザベースがシンガポールにこだわる「もう一つの理由」

ユーザベースがシンガポールにこだわる「もう一つの理由」
2016/09/29 forbes

「シンガポールに引っ越しをする際、日本から猫を連れてきたんですけどね。電話一本かけることなく、支払いまですべてオンラインで手続きができたんですよ」

いったい何の話? と思われるかもしれない。

声の主は、今年3月よりユーザベースのシンガポールオフィスで働く川端隆史。外務省勤務から証券会社を経て、ASEANのスペシャリストとしてユーザベースに入社した、異色のキャリアの持ち主だ。

ユーザベースは2008年創業。企業・業界情報プラットフォーム「SPEEDA」と、ソーシャル機能を兼ね備えた、経済ニュースプラットフォーム「NewsPicks」を手掛け、シンガポールをはじめアジアに4つの拠点を持つ。9月中旬、東証マザーズへの新規上場が承認されたことも、話題を呼んだ。

冒頭のエピソードは、「シンガポールという国の特性が、ユーザベースの事業にどうマッチしたか」に話が及んだ際、川端が口にしたもの。

川端は、シンガポールを「古いインフラのない国」と表現する。国民のスマートフォン所持率は約9割。政府が2014年にスマートネーション構想を発表してからというもの、ありとあらゆるものをスマホに適用させようとする姿勢が国全体を貫く。

川端が驚いたのは、猫の一件だけではない。政府系のサイトも、ほとんどがスマホに対応している。シンガポールでは、テレビや紙媒体の広告よりインターネット広告の方が高く売れることも珍しくないことを知った。より効果のある方にお金をかける、というシンプルな考えでビジネスが進む。

「一般の人々のIT感度の高さ、デジタルに対する垣根の低さは他のASEAN諸国では、ちょっと考えられない。我々も、それを見越した対応をしていく必要があると思うんです」

「土壌」はあった。では、「戦略」はどのようなものだったのか。SPEEDAのシンガポールでの立ち上げ当初から現地で働く伊野紗紀と川端の話を聞いていると、「早い段階で切り替える」という言葉が一つの鍵である気がしてきた。

多国籍国家の強みに目をつけて

ユーザベースが海外展開を始めたのは、創業からわずか6年目の2013年のこと。

「海外のウエイトを高めないと、すぐに成長の限界が見えてしまう。SPEEDAのようなデータサービスは、欧米やアジアにも競合がいるので、彼らと同じような考え方の土俵に乗っていかないと。経営陣は、“必要投資”とし てかなり早いタイミングで思い切って判断したんだと思います」(川端)

日本語版のインターフェイスしかなかったSPEEDAに英語版のインターフェイスと海外の企業のデータを入れることで、グローバル版のSPEEDAは出来上がった。

最初に門を叩いたのは、シンガポールにある日系企業。「でも」と、伊野は続ける。

「日系企業だけではその数は知れている。そこを早い段階で切り替え、(共同経営者の)新野を中心に、海外事業の成功=ローカルマーケットを取りに行く、という目標を掲げました」

ローカルのセールス担当を採用し、グローバル版SPEEDAをローカル企業に売り込む。当時はまだ海外企業のデータが限られていたため、データベースだけで勝負していくのが難しい状況にあった。そこで付加価値としてつけたのが、「リサーチサービス」だ。

シンガポールのビジネスパーソンは、ASEAN各国を広く見ている。「そこで、ASEAN各国出身のアナリストたちを採用し、『SPEEDAにないデータは、アナリストたちがリサーチする』というパッケージとして売っていきました」

現地の言葉と英語ができる人材を採用することができたのは、シンガポールが多国籍国家であったから、と伊野は言う。マレーシア、タイ、インドネシア、ベトナム、中国、インド……。いま、ユーザベースのシンガポールオフィスには、6か国以上の国籍の人々が集まる。これは、シンガポールだからこそ。

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「これが、タイだったらタイ人しか集まらなかったかもしれません」。実際にオフィスに行ってみると、「どんな国籍の人がいてもおかしくない国」という二人の言葉を肌で感じられる空間が広がっていた。

現在、海外オフィスの売上げは、全体の約10%を占める。この数字をぐっと押し上げるための条件が、シンガポールには備わっている。


■私たちが考えるシンガポールの3つの魅力

1. 多国籍国家であること  
どこの国の人がいても気にしない、気にならないという空気に満ちている。それが、とても心地いい。「言い換えれば、ビジネスにおいては配慮されない。実力で見られる国」(川端)。

2. 政府による民間企業の後押し
政府機関が明確な目標を立て、民間企業の後押しをしている。「年度ごとに海外に送り出す民間企業の数を明確に掲げるなど、一丸となってこの国を発展させようとする強い思いがある」(伊野)。

3. 治安が圧倒的にいい
家族が安心して暮らせるのは大きな魅力、と日本のビジネスパーソンは一様に口にしているのだとか。

■ビジネスに役立つ! 私たちのおすすめ情報

-会食に使うレストランは?
ハイディーラオ(海底撈火鍋)クラークキー店 / なかなか予約の取れない火鍋料理の店。朝6時まで営業している。昨年、東京・池袋にも日本一号店がオープンした。

-打ち合わせに使うカフェは?
スターバックス ワン・フラトン店 / マリーナベイサンズの対岸に位置する。チェーン店ながら、非日常を味わえる特別な場所。
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-シンガポール定番のお土産と言えば?
ムーンケーキ(月餅)。毎年8月の終わりから9月にかけて、中秋節のお祝いとして月餅が発売される。写真は、高級ホテル「フラトン」で販売されているもの。シーズン限定で、月餅用に特別カウンターを設けているホテルも。
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■Information
世界各国のメディア関係者が一堂に会す「シンガポール・メディア・フェスティバル」は、11月23日~12月9日までマリーナベイサンズで開催。12月7日〜12月9日には、映像コンテンツの見本市「アジア・テレビジョン・フォーラム」も。
https://www.jetro.go.jp/j-messe/tradefair/ATF2016_51579

米高級ホテルのリッツ、日光進出 訪日客に照準

米高級ホテルのリッツ、日光進出 訪日客に照準
2016/9/28 nk highlighter

 米高級ホテルの「ザ・リッツ・カールトン」が栃木県日光市に進出する方針だ。中禅寺湖畔に約2万平方メートルの土地を持つ東武鉄道と組み、2019年にも開業する。日本では東京、大阪、京都などに次ぐ拠点になる。16年の訪日客が2000万人を超える見通しのなか、地方にも広く外国人客が来訪していることに対応する。

 東武鉄道が1月に営業を休止した日光レークサイドホテルの跡地を活用する。日光湯元温泉から源泉を直接引くこともでき、世界遺産となっている日光東照宮などにも車で30分程度の場所にある。新設するホテルの規模、運営方式については、リッツ・カールトンを運営する米マリオットグループと東武鉄道が調整している。

 リッツ・カールトンはすでに東京、大阪、京都、沖縄に拠点がある。20年までに北海道ニセコ地区にホテルを建設することを表明しており、日本での事業拡大を進めている。

 日本政府観光局によると、今年1~8月の訪日客数は1606万人と前年同期比25%増えている。滞在先も多様化しており、観光庁の調査では、外国人宿泊者数のうち、「ゴールデンルート」といわれる東京、大阪、京都の1都2府以外の割合が15年は5割を超えた。20年の東京五輪に向け、訪日客がさらに増え、滞在先が地方に広がるとみられている。

 東武鉄道は、世界の有名建造物の模型を展示するテーマパークといった観光拠点を沿線の日光・鬼怒川地区に抱える。同地区には世界遺産である日光東照宮などの観光名所もある。17年夏には蒸気機関車の営業運転を復活させる。地域の魅力を高め、訪日客の呼び込みも強化している。

 同社は8月下旬には、地元名門リゾートホテルを手掛ける金谷ホテル(日光市)を今月30日付で買収すると発表。グループの相乗効果を高める施策を矢継ぎ早に打ち出している。

関東三大祭り「川越まつり」開催!

10/15(土)、16(日)、関東三大祭り「川越まつり」開催!  豪華絢爛、山車の競演が見事!
     
2016/9/28 asahi highlighter

 江戸の城下町として栄えた頃から「小江戸川越」と呼ばれ、今も昔ながらの町並みが残る「川越」。
そんな川越は、情緒あふれる観光スポットとして人気の街ですが、一番盛り上がるのが、毎年10月第3土曜、日曜に行われる「川越まつり」です。関東三大まつりのひとつと言われ、昨年の来場者数は90万人以上にも!
江戸時代から脈々と続く秋まつりの真髄を、ぜひご紹介しましょう。

発祥から360年。大江戸の天下祭が今も続く

川越まつりの発祥は、今から約360年前の江戸時代。

当時の川越藩主・松平信綱が氷川神社に神輿などを寄進し、祭礼を奨励したことが起源と言われています。江戸の城下町であった川越は、その風習や風流をいち早く吸収し、栄えた街。川越まつりも、江戸の天下祭を習い発展し、川越独自の文化と融合していきますが、今もその儀式やしきたりは、江戸の文化・文政時代の申し合わせがルーツとなっているとか。
江戸の祭礼 ── 天下祭と言えば、見事な江戸型山車(だし)が競演し、囃子(はやし)や踊りが市中を練り歩く賑やかなお祭り。粋な江戸っ子たちの揚々とした姿が目に浮かびます。
そんな江戸文化が生んだ祭礼は、明治以降の東京では、さまざまな理由で衰退していきます。
しかし城下町・川越に、その祭りの文化は残りました。川越まつりは、華やかな江戸天下祭を今に再現する、貴重な都市祭礼なのです。

*華やかな山車の競演。江戸時代から現存するものも

川越まつりの特徴は、やはり豪華絢爛な山車です。
高さ8mはあろう山車には、それぞれ牛若丸や弁慶など、ご神体である人形が飾られています。神の化身でもある人形は、神話や能、歴史上の人物などさまざま。なかには江戸時代に造られたものもあります。
ひとつひとつの山車は、飾られている人形の持つストーリーに合わせてデザインされており、黒、赤の漆や金箔、そしてあざやかな刺繍が施されています。ここまで立派な山車が揃う祭りは、関東でも滅多にお目にかかれないでしょう。

*市中を巡回する山車。囃子の音色も軽やかに

山車は全部で29台。その年に登場する山車が一堂に集まるのが、昼(大体午後2時頃)の川越市役所前です。豪華絢爛な揃い曳きは見事なので、山車を見比べたい方はぜひ、市役所前へ行ってみましょう。
川越まつりは昼と夜に分かれていますが、昼の楽しみは、山車の巡回。
山車には、笛、大太鼓、小太鼓、鉦の五人囃子と踊り1人の6人が乗っており、軽やかな音色とさまざまな面をつけて踊る姿を披露しながら、市中を巡ります。

夜の見どころは、曳っかわせ。祭りの高揚は最高潮へ

そして夜になると、山車に提灯の明かりが灯り、一気に幻想的な雰囲気に変わっていきます。
川越まつりが最高潮に達するのは、「曳っかわせ(ひっかわせ)」と言われる山車の競い合い。
各交差点で2台、3台と山車が出会うと、回転式の囃子台が回り、囃子や踊りで競い合います。笛や太鼓の音と踊りがしばらく続くなか、まつり人たちは、提灯を揚々と振り上げ、歓声あげます。夜の部は午後6時半頃から9時頃まで。
恍惚とした祭りの雰囲気は、秋の夜長にぴったりの、忘れがたいひとときになるはず。
昼と夜の二つの楽しみがある川越まつりに、ぜひ、訪れてみてはいかがでしょう。
なお時間については、日にちや都合により変更される場合もあるので、公式ホームページをチェックしてからお出かけください