2017/02/28

2月29日、1212年。法然 死去

2月29日、1212年。法然 死去

法然コラム


2017/02/22

川越の観光客、初の700万人超。ユネスコ文化遺産追い風 

2017/2/21 nk

 埼玉県川越市を2016年に訪れた観光客が704万人と過去最高に達した。川越氷川祭の山車行事の国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産への登録が追い風になり、前年比6%増と5年連続で増加した。外国人も4割増えこれまでで最も多い17万人が訪れた。市は今後も外国人の受け入れ体制を整え県内有数の観光地としての存在感を高めたい考えだ。

 川越市は1982年から観光客数を調査しており、近年では都心から1時間弱の立地で蔵造りの街並みを楽しめる観光地として注目が高まっている。これに「山・鉾(ほこ)・屋台行事」のユネスコ無形文化遺産の登録が弾みをつけた。登録が決まった昨年12月に市立博物館など関連施設の入場料を無料にしたところ来館者が増加。川越まつり会館の入館者数は11月の約2倍に増えた。

 鉄道の利便性向上も背景にある。東京メトロ副都心線を経由し東武東上線と横浜方面を結ぶ直通列車「Fライナー」が2016年3月に運行を開始したことも増加の一因とみられる。

 県内の15年の観光客数では川越市は越谷市、さいたま市、入間市に次ぐ4位だった。川越市は同じ人が複数地点を訪れた場合、重複を省くなど独自の手法で集計しているが、越谷市など3市は観光地点や商業施設などを訪れた延べ人数のため、川越市よりも多めの数字が出る傾向にある。16年も同様の結果となるとみられるが、川越市への訪問客が増えている傾向に変わりはない。

 川越を訪問する外国人はアジアからが目立つ。市内の観光案内所を訪れた外国人の国・地域別のランキングは、トップが台湾で、中国、タイが続く。都内に宿泊する観光客らを呼び込んでいる。

 市内の霞ケ関カンツリー倶楽部が20年東京五輪のゴルフ会場になるのをにらみ、市は外国人の受け入れ環境整備を加速する。

 これまで市の玄関口でもある川越駅と本川越駅周辺などで公衆無線LANの導入を進めてきたが、来年度はさらにエリアを拡大する考えだ。西武新宿線本川越駅の観光案内所では1月から手荷物の無料預かりサービスを実施。利便性を高め市内周遊を促す。

 宿泊客の少なさと滞在時間の短さが好立地ゆえの課題だ。市が15年に実施したアンケート調査では97%が日帰り旅行で、半数程度が3時間~半日の滞在だった。

 市は滞在時間延長に向け夕方以降の誘客を強化する。昨年11月~今年1月、初めて中心部に近い大正浪漫夢通りのイルミネーションを実施した。市観光課は「周辺の宿泊施設も少なく宿泊客をすぐに増やすのは難しい。夜の川越を楽しんでもらえれば」と話す。

台湾の〝教育旅行〟。ホームステイも

台湾の〝教育旅行〟 旅行代理店関係者が大津など視察  2017.02.21 TKU

    台湾の〝教育旅行〟を中心に取り扱っている台湾の旅行代理店の関係者が熊本を視察しました。教育旅行とは海外の旅行先の学校と交流するほか、ホームステイし、時には保護者も同伴するというものです。視察を受け入れたのは大津町で、県と熊本市が今年1月に交流促進のための覚書を締結した台湾の高雄市と台北市の計5つの旅行代理店から5人が訪れました。19日から2泊3日の日程で熊本入りした一行は20日、大津町の室小学校を訪問。授業の様子を見学したり、給食を食べたりして、日本の教育に触れました。大津町は台湾との小学校同士で姉妹提携を結ぶなどしていて、今後も積極的に台湾からの教育旅行を受け入れていく考えです。21日は台湾の観光客の間で人気となっている熊本電鉄のくまモン電車に乗車し、車窓から熊本の風景を楽しみました。三益旅行社の陳怡秀さんは「(教育旅行を)企画していたけど地震でなくなった。今後は増えてくるかも」と話していました。大津町への教育旅行は、ことし夏に高雄市の小学校が予定しています。

    2017/02/19

    2017/02/18

    徳川家康の人生は「螺旋的」:安部龍太郎

    徳川家康の人生は「螺旋的」 

    2017/02/12  楽天WOMAN  見出し・本文を一部改変

    安部龍太郎さんは「僕は信長への興味から戦国時代史に入り、三十年近くかかってようやく分かってきたことがあります。

        信長が直線的であるとすれば、

        秀吉は多角的、そして

        家康は螺旋的

    だと思うんです。

    家康は時間を味方にするような生き方をして、何年かを経るとまるで螺旋階段を上るように場所は同じでも、立っている位置が確実に上がっている」と仰られた。見事な比喩だ。やられた。うならされると同時に私は思った。安部さんは家康をつかんだのだなと。いよいよ書くつもりなのだなと。

     あれから一年余、『家康 (一)自立篇』が上梓された。そのものズバリのタイトルで、全五巻の予定という大作の幕開けである。

     物語は家康十九歳から始まる。人質として長じたとはいえ、今川義元の姪と結婚、子供にも恵まれたが、そこで迎えたのが桶狭間の戦いだ。今川方が大敗すると、勝った織田信長との同盟に転じる。天下布武の戦いに従いながら、自身も三河遠江二国の太守となる。が、今度は武田信玄との対決を余儀なくされ、かくて三十一歳の家康は三方ヶ原の戦いに臨み――という運びは、誰もが知る歴史だ。しかし、この『家康』は、これまでとは違う。どう違うかは読んでもらうとして、なぜ違うのかと問えば、やはり安部さんが織田信長から入られたからだろう。

     織田信長がわからないのは、後の世の徳川鎖国時代に矮小化されたからだというのが、安部さんの御説だ。話を国内の政治闘争に限定して、国際的な視角、経済的な視角が削られてしまったのだ。それを信長物で取り戻した安部さんは、この新しい視角のまま、今度は家康をみた。徳川の世から信長をみるのでなく、織田の世から家康をみる。ぐるりと一巡して、同じ歴史も螺旋階段を上がったように一段高くなる。そこを歩み続ける天下人の生涯が、この『家康』で見事な形を取り始めたのだ。

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    あべりゅうたろう/1955年生まれ。『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞、『等伯』で直木賞を受賞。他の著作に『信長燃ゆ』『レオン氏郷』『五峰の鷹』『姫神』『義貞の旗』『おんなの城』など多数。

    さとうけんいち/1968年生まれ。『王妃の離婚』で直木賞、『小説フランス革命』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。
    (佐藤 賢一)

    シコ踏み運動。腰痛ダイエット、ダイエット



    2017/02/17

    武蔵野病院の破綻は理事会マネジメントの機能不全から

    武蔵野病院の破綻は理事会マネジメントの機能不全から 

    武蔵野総合病院、過剰投資で資金繰り圧迫

     医療法人武蔵野総合病院は1967年11月の設立。埼玉県川越市を中心に狭山、比企の一部までカバーする地域の中核的総合医療機関として発展。近年は21の診療科、185の病床数を有していた。

     ピーク時の売上高は2000年代半ばごろで約30億円。以降は25億円前後で推移してきた。しかし、破綻した医療法人の救済や、過剰ともとれる設備投資で徐々に体力を奪われていく。

     まずは、同じ川越市内の医療法人廣瀬病院の救済。51年開業の老舗だが、設備投資過多による資金繰りの悪化で業績不振が続き、06年11月に負債約19億円を抱えて民事再生法の適用を申請。ここで武蔵野総合病院がスポンサーとなり、医療法人刀圭会本川越病院として再スタート。だが、新病棟建設がまたも投資効果を生まず、同院は赤字が常態化。結局、武蔵野総合病院が支援のため約5億円の資金拠出を余儀なくされた。

     次に、15年に開設した「川越予防医療センター・クリニック」の誤算。川越駅近くの複合施設内という好立地に開設。「都市型医療施設」として期待されたが、十分な売り上げを確保できず、高額な不動産賃料とリース料が収益を圧迫。こちらも赤字が続いた。

     このクリニック開設費用は総額で約7億円。年商規模の有利子負債が資金繰りを圧迫し、12月27日、民事再生法の適用を申請した。今後は、病院再生に実績のあるスポンサーの支援を受け再建を目指す。

     投資の失敗、過剰投資による破綻という病院破綻の典型ともいえるケースだが、それを許した理事会マネジメントの機能不全にも厳しい目が向けられている。民事再生の申立書には「医師たる理事による事務方への経営の丸投げ」との記載もあり、その評価は手厳しい。今回の倒産は、改めて医師が病院経営を行う功罪を浮き彫りにした。
    (文=帝国データバンク情報部)

    2017/02/15

    MBA校ランキング。仏の経営大学院インシアード 2年連続首位 シンガポールとフランスに拠点 国際性に評価

    仏の経営大学院インシアード。 MBA校ランキング。2年連続首位

    シンガポールとフランスに拠点 国際性に評価  

    2017/2/15 NK 。編集・修正

     英フィナンシャル・タイムズ(FT)紙は、経営学修士号(MBA)を取得できる世界のMBAスクールの2017年ランキングを発表した。1位は2016年に引き続きフランスとシンガポールに拠点を置くINSEADだった。MBA取得は企業でのキャリアアップに有利とされるが、学費などコストが安く修学期間も短いコースが人気を集める傾向がさらに強まっている。

     INSEAD(インシアード)は、他のMBAスクールで主流の2年コースより短い1年コースのプログラムに加え、フランスとシンガポールの2つのキャンパスを学生が行き来する「国際性」も特徴だ。世界中に広範囲で多様な修了生のネットワークをもっている。同校のプログラムは、修了生の3年後の「国際移動性」で3位、学校のある国以外での留学やインターンシップの度合いを示す「国際コース経験」で6位にランクされた。

        /日経

     INSEADの修了生に対する調査では、スイスの修了生は「INSEADは学生の国際文化経験を向上させてくれる。他のどこよりも世界の文化を学べる場所」と答えた。

     2位はスタンフォード。前回5位から順位を上げた。長年にわたって重きをなしてきたハーバード・ビジネス・スクール、ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)、マサチューセッツ工科大(MIT)スローン校はそろって後退した。

     ハーバードがトップ3を逃したのはこの9年間で初めて。LBSはここ14年で最低の6位となり、13位のスローン校は10年ぶりに10位を下回った。初めてトップ5入りしたケンブリッジ大ジャッジ・ビジネススクールは英国のスクールとして最上位で、LBSが英国勢トップの座を明け渡したのも初めてだ。

     アジアのMBAスクールを見ると、アジアでの首位は中国・上海の中欧国際工商学院(世界では11位)で、前回はアジアで2位、世界ランキングで17位だった。アジア2位は香港科技大商学院(世界で15位)、3位はシンガポールのナンヤン・ビジネス・スクール(同24位)が続いた。

     「MBA教育の本場」、米国のMBAスクールのランキング入りは、2016年は47校と初めて50校を割り込んだものの、今回は51校まで巻き返した。初のランキング入り、または再ランキング入りを果たした8校のうち6校は米国のMBAスクール。

     この6校のうち、ニュージャージー州のラトガーズ大ビジネススクールは新参校として最も高い70位に入り。カムバック組ではアリゾナ州立大WPケアリー校が最も高い57位だった。

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    【※】
    ・MBA
    Master of Business Administration。経営学修士号のこと。欧米では、3年ほどの実務経験保持者用のビジネススクール(経営大学院)。

    INSEAD(インシアード)  wp

    フランスのフォンテーヌブロー、シンガポール、アブダビにキャンパスを持つビジネススクール・経営大学院  。
    2015年現在、MBAには80か国余りから約1000名、Ph.D.には30余国から60名強の学生が在籍


    INSEADのMBAプログラムは、Financial TimesのGlobal MBA ranking 2016で世界第1位、
    INSEADの主な特色として、1年制MBAプログラムであること、80か国以上から学生が集まっており言語・国籍の多様性があること、
    政府・大学・企業から独立した機関であることも特徴のひとつ
    国名を避け「ヨーロッパ・キャンパス」、「アジア・キャンパス」のように呼ばれる。
    本校・分校の区別はなく、全てのキャンパスを合わせて1つのグローバルスクールであり、入学審査もキャンパスとは無関係に共通で行われる。
    2014年では7割の学生が1年の間に複数キャンパスに在籍をした[10]。また多くの教授陣も1年を通して両校舎を行き来する。


    主な日本人卒業生[ソースを編集]

    上田良一 - 日本放送協会(NHK)会長、元三菱商事株式会社代表取締役副社長執行役員CFO
    藤本進 - 元MS&ADインシュアランスグループホールディングス株式会社取締役副社長執行役員兼三井住友海上火災保険株式会社副社長執行役員、元大蔵省、豊田章一郎の娘婿。豊田章男は義弟。
    藤田泰久 - トヨタファイナンス株式会社代表取締役社長
    明日香壽川 - 東北大学教授、経済学・環境科学者
    福田譲 - SAPジャパン株式会社代表取締役社長
    櫻井本篤 - 在ニューヨーク総領事(大使)
    河合美宏 - 金融安定理事会理事、保険監督者国際機構(IAIS)事務局長
    中山恒博 - メリルリンチ日本証券株式会社代表取締役会長
    三宅伊智朗 - アリアンツ生命保険株式会社代表取締役社長
    野宮博 - 元株式会社RHJインターナショナル・ジャパン代表取締役、株式会社クロスポイント・アドバイザーズ共同パートナー
    松田一敬 - 北海道ベンチャーキャピタル株式会社代表取締役社長
    若林拓朗 - 先端科学技術エンタープライズ株式会社代表取締役
    石川真一郎 - 株式会社ゴンゾ代表取締役副社長
    吉田直樹 - 株式会社T・Zoneホールディングス代表取締役社長
    浅井克仁 - 元フットワークエクスプレス株式会社代表取締役社長
    小山順子 - ヴーヴ・クリコ ジャパン株式会社代表取締役社長
    三谷宏治 - 元アクセンチュア株式会社 戦略グループ エグゼクティブ・パートナー, 現金沢工業大学大学院知的創造システム専攻ビジネスアーキテクチャーコース教授
    荒木和夫 - 元アーンスト・アンド・ヤングドイツおよび日本 パートナー(公認会計士、米国公認会計士、不動産鑑定士、英国勅許鑑定士)、名古屋経済大学名誉教授
    鈴木一功 - 中央大学専門大学院国際会計研究科(アカウンティングスクール)教授
    浅川和宏 - 慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授
    階戸照雄 - 日本大学大学院 総合社会情報研究科教授
    宮崎久美子 - 東京工業大学大学院イノベーションマネジメント研究科教授(技術経営専攻)
    吉森賢 - MBA1965、横浜国立大学名誉教授
    河本尚之 - 元SMBC日興証券代表取締役副社長
    阿部直之 - 元三菱東京UFJ投信代表取締役専務
    安部義彦 - 株式会社価値革新機構代表取締役

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    江戸城・皇居 案内図


    お城散歩 江戸城 
    ①大手門 :ここから城内(皇居東御苑)に入ります。休園日は、基本的に月・金曜日です。
    ②同人番所 :番所とは警備のための詰所で、こちらには同心が詰めており登城する大名の供の監視をしていました。
    ③百人番所 :江戸城最大の番所で、鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。
    ④白鳥濠 :本丸に向けて一段高くなっており、江戸城が岬に立地していたことが分かります。この反対側が二の丸跡です。
    ⑤汐見坂 :本丸と二の丸を結ぶ坂道です。かつては皇居前広場のあたりまで日比谷入り江が入り込み、ここから海を眺めることができました。
    本丸広場:今は広場となっていますが、江戸時代には御殿がありました。
    ⑥本丸休憩所 :中に昔の江戸城の写真が展示されています。
    ⑦展望台:手前の二の丸庭園と奥の大手町・丸の内のオフィス街が対照的です。
    ⑧富士見櫓 :現存する3つの櫓の一つで、唯一の三層櫓です。明暦の大火(1657)で焼失した天守の代わりを務めたといわれます。
    ⑨松の廊下跡 :忠臣蔵の吉良刃傷事件の舞台として有名です。
    ⑩石室 :抜け穴や金蔵という説もありますが、非常時の倉庫として利用されたと考えられます。 
    ⑪天守台 :巨大な石が整然と積まれています。天守は明暦の大火(1657)で焼失し、その後再建されませんでした。
    ⑫北詰橋門 :皇居東御苑の北側の出入口です。北詰橋門を出て歩道橋を渡り、北の丸公園に向かいます。左折して半蔵門に向かうこともできます。
    ⑬清水門 :重要文化財に指定されています。
    ⑭田安門:
    北の丸北側の入口、重要文化財です。
    ⑮千鳥ヶ淵 :桜の名所としてあまりにも有名なところです。 
    ⑯半蔵門 :服部半蔵にちなんで名づけられています。将軍の緊急時の脱出路とも言われています。半蔵門から桜田門にかけては、巨大な堀、緩やかで長い下り坂が続き、この城郭の雄大さを感じることができます。
    ⑰桜田門 :井伊直弼が殺害された桜田門外の変(1860)で有名ですね。
    ⑱二重橋・伏見櫓 :江戸城を紹介する際に最もよくつかわれる構図です。
    ⑲坂下門 :皇居への玄関として、時に要人が出入りしています。
    ⑳桔梗門 :小規模ながら端正な門です。桜田二重櫓:奥に見えるのが大手門、ようやく一周です。ゆっくり見ながら2時間30分以上かかります。
    ①大手門

    江戸城 ウィキペディア

    「江戸城」に隠された太田道灌と菅原道真の関係

    「江戸城」に隠された太田道灌と菅原道真の関係

     2017/2/10 dot.

    江戸城・皇居 案内図 

     現在は天皇のお住まいとして皇居と呼ばれている場所は、明治時代以前は江城(こうじょう)あるいは千代田城と呼ばれるお城だった。総周囲は4里とも言われ、もちろん日本最大の城郭である。

     江戸城を最初に城として築いたのは、室町時代の末期、戦国時代と呼ばれていた頃に、関東に勢力を持っていた扇谷上杉家の家臣・太田道灌だという。

    ●東京のパワースポットに欠かせない太田道灌の名前

     関東に住み、かつ歴史に興味がある人でなければ、太田道灌という名にはピンとこないかもしれない。だが、私のように関東一帯で神社仏閣ばかりを取材している人間にとって太田道灌は、現在残る寺社の歴史を調べれば、かなりの確率で耳にする名前である。

     多くの寺社を勧請し、建立した太田道灌が築城に関わったという時点で、江戸城が地学的にパワースポットとして造成されていくことになる基礎ができたと言ってもよいかもしれない。

    ●道灌の城造りは寺社勧請とともに

     道灌は城の築城にあたり、まず、現在は赤坂にある日枝神社を城内に勧請(かんじょう)した。

     また、京都・北野天満宮から勧請して菅原道真を祀った社を建て、さらに、掘った井戸から出てきた銅印を祀って吉祥寺(現在は本駒込に移動)を建立した。鬼門側(建物の中心から見て北東方位)には柳森神社、西方には市谷亀岡八幡宮を勧請、目青不動を移転、裏鬼門(建物の中心から見て南西)に品川神社や西久保八幡などを整えている。道灌の名前が出てくる寺社は相当数に上るのでこのくらいにしておくが、当時の戦況を考えると、江戸城の守りは連戦連勝の道灌にとってさえも重要な要だったといえそうだ。

    ●徳川幕府は風水で江戸城を固めた

     江戸時代になり、城は天下普請と呼ばれる大造営が施されていく。

     家康の参謀と言われる僧・天海は、江戸の町を風水的に安定している京都の町と同じに造営しようと考え、寺社や川、道路などを配置した。

     その上、城の守りを堅固にもできるため、河川のつけかえ、街道の整備、海岸の埋め立て、門や橋の造営など大掛かりな普請を続けた。工事は千代田のお城だけにとどまらず江戸中に影響するほどのもので、お城の南側に広がっていた日比谷入江の埋め立てが始まったのが1603年、神田川の拡幅工事でその普請の一切が終わったのが1660年。すでに時は4代将軍・家綱の時代となっていた。


    ●紅葉山はもっとも神聖な場所に

     皇居の周りの地名には「門」や「橋」のついた地名が多いことに気がつかれるだろう。江戸城に近づくには、いくつもの橋を渡り、門をくぐる必要があった。神田川や隅田川の流れを変え、江戸へ入る道・五街道を整備することで、人の出入りの監視を強化することができたのだ。さらに、これらの要所には寺社を配置、またもともとあった有力な寺社に寄進することで、邪気が江戸に入りにくくしたのだとも伝わっている。

     また、江戸城の中にも東照宮を造営し(明治政府により廃された)、歴代の将軍の霊廟(れいびょう)が作られたのだが、この場所が今も皇居の中に残る紅葉山である。現在は御養蚕所が建てられており、皇后が養蚕作業を引き継がれている。天皇家にとっては、神話時代から続く神聖な作業が行われている場所だといえるだろう。

    ●江戸城に残る道真ゆかりのもの

     話はそれるが、東京・大手町に首塚のある平将門は菅原道真の生まれ変わり、将門となった菅原道真は太田道灌に生まれ変わった、という俗説が存在する。これは、太田道灌の父が道真という名であったこと、道灌もまた将門のように首だけが別に祀られている首塚があることなどから、いつしかまことしやかに語られるようになったのだろう。だが、今のところ将門や道真のような怨霊話を道灌に関しては寡聞にして知らない。一方で、道灌は菅原道真を大変尊敬していたようでもある。

     なにしろ道灌は、神社を城内に建立しただけでは飽き足らず、菅原道真を祀って梅林も作っている。その場所が今でも都内の梅の名所として知られている皇居東御苑の「梅林坂だ。菅原道真を祀る天神さまに、梅の木はもちろん欠かせないものではあるが、さらにそのそばに天神堀というお堀まであり、その傾倒ぶりには驚かされる。生まれ変わり説はもしかしたら、道灌自ら吹聴していたのかもしれない。

     さて、現在の梅の木は昭和に植樹されたものだが、まさに今がみごろの開花状況だ。私が訪れた日は海外からの旅人が多かったが、太田道灌と徳川幕府がともに力を集約した場所は、今ももちろんパワースポットとして多くの人々を魅了していることは間違いないだろう。
    (文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

    2017/02/10

    徳川家康が築城の江戸城。当時の構造描いた絵図 発見 【動画】

    徳川家康が築城の江戸城。当時の構造描いた絵図 発見 【動画】

    2月8日 nhk

    江戸時代初期に、徳川家康が築城した江戸城の当時の構造を詳しく描いた絵図が松江市で見つかり、専門家は、戦いに備えた堅い守りの構造がわかる貴重な資料だとしています。

    新たに見つかったのは、松江歴史館が所蔵する江戸時代に描かれた全国の城の絵図を集めた「極秘諸国城図」の中の「江戸始図(はじめず)」です。松江歴史館が、複数の専門家に依頼して調査したところ、絵図の大名屋敷に記された名前などから徳川家康が築城した江戸時代初期の江戸城を描いたものとわかったということです。

    江戸城はその後も改修が繰り返され、当時の詳細な構造はわかっていませんが、「江戸始図」では、城の石垣ややぐらなどが細部まで描かれているということです。

    調査に当たった奈良大学の千田嘉博教授などによりますと、江戸城を描いた絵図として最も古いとされる慶長13年ごろの絵図と同じ頃に描かれたとみられ、「江戸始図」からは、姫路城のように大天守(だいてんしゅ)と小天守(こてんしゅ)がつながった「連立式天守」という堅い守りの構造だったことが確認できるということです。

    また本丸の南側は、戦いを意識して熊本城のように出入り口を複雑な形にした「外枡形(そとますがた)」という構造になっていたことが、新たにわかったとしています。

    千田教授は、「謎に包まれた家康の江戸城を明らかにする画期的な発見で、姫路城や熊本城などのすぐれたところを合わせた最強の城と言え、豊臣氏との決戦に備えた家康の意志が伝わってくる」と話しています。

    2017/02/09

    メルマガ「まぐまぐ」を正常に受信する方法。

    「まぐまぐ」が届かない場合があります。
    下の設定で、正常受信できます。
    メルマガ「まぐまぐ」を正常に受信する方法

    2017/02/08

    「時の鐘」の耐震工事が完了した川越に見る、成功した街づくり。森川孝郎

    「時の鐘」の耐震工事が完了した川越に見る、成功した街づくり
    citrus 旅行コラムニスト 森川孝郎 2017.01.24


    ■活気のある商店街と統一感・清潔感のある街


    先日、街のシンボル「時の鐘」の、およそ1年半にわたる耐震化工事が完了した埼玉県川越市を訪問してきた。私は川越周辺で育ち、県立川越高校の卒業生なので、川越を離れた今も、この街には愛着がある。

    工事期間中も、メディアの取材等で何度か訪問し、工事用の足場と覆いに囲まれた「時の鐘」を目にしたが、やはり「時の鐘」が見えない川越の空は、寂しいものだなと思った。


    つい先日、1月9日には工事完成記念式典が執り行われ、昨年3月より休止していた、1日4回の「定刻の鐘つき」がおよそ10ヶ月ぶりに再開された。ちなみに、夜間ライトアップは昨年末から再開している。

    ところで、訪れる度に感じることだが、並いる観光地の中で川越の「街づくり」は上手くいっているなと思う。顕著なのが、商店街にとても活気があることだ。

    川越の商店街は大ざっぱに分ければ、川越駅周辺の新しい商店街「クレアモール」と、伝統的な「蔵造り」の街並みを活用した「一番街」商店街がある。



    クレアモール商店街


    まず、「クレアモール」のほうは、私の幼少期の30~40年前は、「サンロード」と呼ばれ、地元の老舗百貨店「丸広」のほか、「丸井」川越店や「長崎屋」川越店もあった。

    現在、大型店舗で残るのは「丸広」のみとなったが(駅に隣接する施設として、JR・東武川越駅に「アトレ」、西武本川越駅に「ぺぺ」はある)、地方商店街によく見られるシャッター商店がほとんど見られない。地元の小売店舗が元気なのは、むしろ良いことなのではないか。


    蔵造りの町並みが残る、一番街
    新しい商店街が栄えれば、古い商店街は衰退しそうなものだが、「一番街」のほうも、元気があるように見える。そして、川越旧市街を訪れて感じるのは、街並みに統一感・清潔感があることだ。

    アレックス・カー氏の名著『ニッポン景観論』を持ち出すまでもなく、日本の街は一部の例外を除けば、空を見上げれば電線が張り巡らされ、街中だけでなく郊外の道路沿いにも"色彩のテロリズム"とも言うべき、統一感のない色とりどりの看板が溢れかえっている。

    その点、川越は電線が地中化され、古い街並みがよく保存されているのみならず、明治の大火後に建てられた「蔵造りの町並み」、モダンな雰囲気の建物が多数残る「大正浪漫夢通り」、そして昭和の風情が残る「菓子屋横丁」など、エリア毎に個性を持った景観保存がなされているのも面白いと思う。



    ■川越の街づくり成功の理由


    とはいえ、このような街づくりが努力なしに成った訳ではない。

    詳細は、下記の資料によくまとめられているので譲るが、戦後、市の中心が駅周辺に移動したことで、「一番街」周辺は活気を失った。

    しかし、1971(昭和46)年に川越で一番古い蔵造りの家「大沢家住宅」が国の重要文化財指定を受けるなど、1970~80年代にかけて伝統的な街並みの価値が見直されるようになった。

    これを契機に、中長期的視野に立った街づくりの枠組みをつくり、早い段階で建築をはじめとする専門家の意見を取り入れたことが、成功に大きく寄与したという。

    ちなみに、川越は電線類地中化事業を1992年9月に完成(1991年2月着工)し、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を1999年12月に受けている(全国54番目)。

    歴史的街並みを生かした商店街の活性化(PDF)



    ■上手くいっている川越にもある課題


    近年は、「時の鐘」や「蔵造りの町並み」と並ぶ、重要な観光資源である「川越城本丸御殿」の保存修理工事を2011年に終えるなど、観光都市として「やるべきことをやっている」という印象の川越市だが、まだまだ、課題もある。



    一部の道路では、増えた観光客に対して歩道が狭いため、車で走っていると溢れる歩行者と接触しそうな危険を感じる場所がある。

    また、街を訪問しての全体的な印象としては活気があると感じられる川越の商店街だが、本川越駅周辺と「一番街」をつなぐ「中央通り」沿道などは、商店街の衰退が著しく、これに対処するために土地区画整理事業を行っている。

    さらに、交通の面では、市内を運行し観光にも使える「循環バス」が、実際に利用しようとすると使い勝手が悪く、改善の余地があるように感じる。

    中央通り沿道街区土地区画整理事業/川越市

    なお、これは「観光立市」を掲げる都市には共通の話だが、観光客だけを相手にする商売というのは、長続きしない。

    どこの観光地に行っても、本当の意味で上手くいっているのは、地元民にも愛され、地元商店として存在価値を発揮している店だろう。

    そういった商店を大事にし増やしていくことが、地域住民・観光客双方の満足度向上にもつながる。川越のみならず、日本の観光地の今後の課題ではないだろうか。

    超親日国の数々。あの国と日本の「ちょっといい絆」物語

    実は知られていない超親日国の数々。あの国と日本の「ちょっといい絆」物語。ポーランド、イラン、トルコ、インド、フィンランド
    citrus  2017.02.03


    人に好き嫌いがあるように、国同士にも好き嫌いがあります。各種調査によると、日本に対して好意を寄せてくれている国のほうが圧倒的に多いのが実情です。その理由は、日本が戦後一貫して築いてきた平和国家のイメージや、世界をリードする経済とテクノロジー、伝統文化やサブカル、さらには国民性といったものが、世界の人々に好ましく思われているからだと思われます。

    しかし、そういった一般的なイメージによる「親日」とは別に、ある特別な理由によって、「日本が大好き!」になった国も多く存在します。これらの国々が「超親日国」になった〝きっかけ〟を探れば、歴史に埋もれた秘話や感動の逸話、意外な人物の奮闘など、多くの興味深いストーリーが介在していることがわかります。ここではいくつかの「あの国」と日本の〝絆の物語〟を紹介していきます。


    ■ポーランド……窮地を救ってくれた日本への70年越しの「恩返し」


    ポーランドが日本びいきになったのは、20世紀前半に日本がたびたびポーランドを援助していたからだと考えられている。当時、帝政ロシアの圧政に苦しんでいたポーランドは、日露戦争で小さな日本が超大国ロシアにまさかの勝利をし、歓喜に沸いたという。そして1914年、第一次世界大戦時、ポーランドは、ロシア軍とドイツ軍の主戦場となってしまい、多数のポーランド人がシベリアへと逃げていった。その数20万人。だが彼らはシベリアの荒野で餓死、凍死、病死と、次々に命を落としていく。挙兵したポーランド人もいたが、ロシア軍にはまったく歯が立たず、窮地に陥っていた。

    そのとき、救いの手を差し伸べたのが日本人。ロシア軍に追い詰められたポーランド人部隊を救助し、シベリアから祖国へ送り届けた。そしてまた、多くのポーランド人の孤児を保護して日本へ。そして祖国へ送り返す。祖国へ帰国する際、孤児たちは船の上から「アリガト」と、日本との別れを惜しんだ。70年後、ポーランドは、その恩を忘れず、阪神淡路大震災で被災した60人の日本の子どもたちをポーランドに招待して慰めてくれたのだった……。


    ■イラン……国の救世主となった「日章丸」のドラマ


    イランは、原油の確認埋蔵量が世界4位という資源大国。第二次大戦前はイギリスの半植民地のような状態だった。ところが、1951年、イランが自国の石油を国有化したことで、イギリスが激怒し、ペルシャ湾に艦隊を派遣し、海上封鎖に打って出て、イランの石油は国際市場から閉め出されてしまう。その結果、どの国もイランの石油を買わなくなり、石油輸出に依存するイランは国家存亡の危機に陥る。そのとき、果敢にもイランの石油買い付けに乗りだしたのが、日本の出光興産だ。社長の出光左三は、かねてよりイギリスから搾取されつづけていたイランに同情的だったのだ。

    イギリスの目をかいくぐってタンカー「日章丸」がイランに到着。「日章丸」は、まさにイランの「救国の船」になった! この一件により、イランに「超親日国」の土台が築かれたのである。


    ■トルコ……「エルトゥールル号」事故に端を発した両国の友好関係


    1860年(明治23年)、トルコ(オスマン帝国)の軍艦が日本を表敬訪問した際、和歌山県沖で台風に遭遇し難破。沈没してしまったのである。乗員の安否は絶望的と思われたが、地元串本の人々は、必死で人名救護にあたり、運よく島に流れ着いたトルコ人に浴衣を着せたり、食料を分け与えたりし、生存者を手厚くもてなした。結果69名の命が救われたのである。その後、トルコの教科書にエルトゥールル号事件が掲載されたこともあり、トルコの人々は親日感情を深めていく。

    ときはたち、昭和60年、今度はトルコが日本の窮地を救ってくれることに。イラン・イラク戦争が勃発し、中東情勢は緊迫の度を増していた。そうした中、イラクのフセイン大統領が「イランの上空を飛ぶ飛行機を撃ち落とす」と世界に向けて宣言したのである。攻撃まで残された時間は48時間。各国とも、自国民の帰還・保護に努めたが、日本は航空機を確保できず、イラン在住の日本人たちが取り残されてしまった……。このとき、彼らを救出するために、自らの危険を顧みず救援機を飛ばしてくれたのがトルコだったのである! トルコ人は「エルトゥールル号の遭難で日本人に受けた恩は忘れていません」と語るという……。


    ■インド……大正時代から独立運動に関わった日本との強い絆


    イギリスからの独立を画策するインドのビハリ・ボーズは、1914年(大正3年)に日本へ亡命。パン屋「新宿中村屋」に匿われる(その際、ボーズが伝授したのが、中村屋名物「インド・カリー」)。その後も日本は、インドの独立に関わり続ける。そして、敗戦後の「東京裁判」では、インドのパール判事はただ一人、日本人被告全員の無罪を主張……
     

    ■フィンランド……独立を後押しし、領土問題も解決した日本人


    フィンランドも日露戦争で日本びいきに。日本はまた、フィンランドのロシアからの独立を後押しし、経済援助や武器供与も行った。さらにスウェーデンとの間に領土紛争が起きると、国際連盟の事務次官だった新渡戸稲造がこの領土問題を「大岡裁き」でスッキリ解決し、フィンランドは超親日国に!


    【関連書籍】
    『「あの国」はなぜ、日本が好きなのか』(三笠書房)

    2017/02/03

    カルロス・ゴーン (29) リーダーの条件 。私の履歴書

    リーダーの条件 結果出し共感呼び込む 「生まれながら」存在しない
    2017/1/30 nk  私の履歴書

     三菱自動車会長の益子修さんがみえたのは、2016年4月21日だ。三菱自への支援を求めてのことだった。


    社内外の若手を集めたリーダー養成講座(昨年10月、横浜市の日産本社)
     同社が燃費試験に関する不正を明らかにしたのは、その前日。日産自動車と三菱自は軽自動車の開発ですでに提携関係にあり、私も同社の状況はよくわかっていた。

     両社の間で以前より一歩進めた戦略的なアライアンス(提携)の関係を結ぶことになった。日産が再生に取り組んで成功した1999年以降の挑戦を考えれば、三菱自にももう一度チャンスが与えられてしかるべきだと思った。

     昨年5月12日。私は益子さんと横浜市内で記者会見を開き、日産が三菱自の株式の34%を握ることなどを発表した。日産は10月に三菱自の最大株主になり、三菱自はルノー・日産アライアンスの一員に加わった。

     アライアンスは世界販売で年間約1千万台の規模になり、3大グループに並ぶ存在となった。上位にあったメーカーとのハンディキャップを埋め、その他の企業に対してもより有利な状況を与えてくれる大きさである。

     私は昨年12月、三菱自の会長に選出された。社長に戻って陣頭指揮を執る益子さんや日産から行ったトレバー・マン最高執行責任者(COO)を支えることになった。

     とはいえ、ルノーと日産、三菱自のアライアンスは我々現経営陣だけでずっと担い続けていくものではない。次の世代の成長がやがて重要な要素になる時も来るはずだ。

     では、私が考えるリーダーの条件とは何か

    1つは、結果を出せる人だ。トップはどんなに厳しい状況でも常に結果を出さなくてはならない。また、経営、組織の問題点をはっきりさせ、時には周囲が「右」と思っているところを「左」と言う必要がある。

     日本人には簡単なことではないかもしれない。控えめなことを美徳と考える文化があるからだ。日産とルノーの「アライアンス・ボード・ミーティング」を初めて開いた時、会議でずっとしゃべっていたのはフランス人だった。日本人は静かに聞いていた。だから私はフランス人に「仲間の意見も聞こう」と言い、日本人には「もっと意見を言って」と促したものだった。意見を積極的に言い合うことは結果を出す上で重要だ。

     第2に、リーダーは人々とつながる能力を身につけないといけない。堅苦しい、冷たいなどの印象を持たれては話を聞いてもらえないし、部下たちの働く意欲も損なわれる。リーダーは「共感(empathy)」される能力を磨くべきだ。

     最後に、新しいことを常に学ぶ姿勢だ。ゼロエミッション(無公害)や自動運転、インターネットとつながる技術は進歩が著しい。自動車産業は今、転換期を迎えており、新しい技術や動きに精通し、行動していなければ、たとえどんなに結果を出すリーダーでも行き詰まる。

     生まれながらのリーダーなど存在しないと私は思う。リーダーは周囲からリーダーだと認識されないと、なれないものだ。私も1999年に日本に来た時は懐疑的に見られていた。信頼を得たのは、従業員との対話を欠かさず、ともに結果を出し、常に学び続けているからである。

    (日産自動車社長)

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    Carlos Ghosn (29) The next generation

    Nurturing new leaders is more important than ever for Nissan's expanded alliance


    Carlos Ghosn speaks at a seminar for next-generation leaders in Yokohama last October.

    On April 21, 2016, Osamu Masuko, CEO of Mitsubishi Motors, came to me to ask for Nissan Motor's support in reviving his company in the aftermath of its fuel-efficiency scandal. Nissan and Mitsubishi Motors were already partners on kei minivehicle development, so I knew the company well. It was clear that forming an alliance made strategic and financial sense for both of our companies. And coming from Nissan, which had known its own challenges, we knew that Mitsubishi Motors deserved a second chance.

    We announced our plans for the deal in May, and it was completed on Oct. 20. Nissan became Mitsubishi Motors' largest shareholder, and Mitsubishi Motors became a member of the Renault-Nissan Alliance. With this enlarged alliance, our sales are now at 10 million vehicles per year, putting us among the top three automotive groups worldwide. This scale gives us an advantage over most other automakers, and a disadvantage to none.

    In December, I was elected chairman of the board of Mitsubishi Motors. It will be my responsibility to support Masuko-san and Trevor Mann, who came from Nissan to Mitsubishi Motors to take on the role of chief operating officer. But the fate of Mitsubishi Motors depends not only on its top leadership, but also on the growth of leaders within the company.

    What qualities make a good leader?

    First, a leader is somebody who can deliver performance. He or she systemically delivers, and has long experience delivering on challenges. This sometimes means we must speak up to identify problems or present controversial opinions. This is not always easy for Japanese leaders, for cultural reasons. When we first held alliance board meetings, almost all of it was in French. I had to tell my Renault colleagues to be quiet and listen to their Nissan counterparts. I encourage more Japanese leaders to speak up whenever necessary. This is critical to delivering results.

    Second, a leader needs the ability to engage with people. When you're heading a company, people need to connect with you. If they see you as stiff or cold or not easy to understand, they're not going to listen to you, and a lot of motivation and engagement is going to be lost. In other words, a leader must have the capacity for empathy.

    Third, a leader needs industry intelligence. Electric cars, zero-emission vehicles, smart cars, self-driving technology, stiffer regulations and new competition are all transforming the auto market in huge ways. If you don't have industry intelligence, it doesn't matter how much empathy you have, or what kind of performance you can deliver -- you will have a lot of difficulties if you are not constantly learning, understanding and acting.

    I believe no one is born a good leader. Leaders become leaders when they are recognized as such by other people. When I came to Japan in 1999, I was viewed with deep skepticism by employees. But I worked hard to deliver performance, connect with people and always build my industry intelligence. Through this process, I have gained the trust of our employees, and together we have delivered results. I believe Mitsubishi Motors can do the same.




    2017/02/02

    山形市が観光地経営組織 地銀3行出資へ、特産品やツアー開発

    山形市が観光地経営組織 地銀3行出資へ、特産品やツアー開発
    2017/1/27 nk

     山形市は地元金融機関や観光協会などの支援を受け、DMO(観光地経営組織)を3月に設立する。山形県上山市や天童市と連携して県内3地域の特産品やツアー商品を開発。国内の観光客向けに商品の予約や販売をするウェブサイトを立ち上げる。地銀に加え、観光客データの収集・分析をする外部の専門事業者も参加。大型DMOとして観光客誘致につなげる。

     DMOは地域ごとに観光振興の戦略の策定や推進、商品開発などを担う組織。新しく立ち上げるのは「DMCやまがた」という名の株式会社で、山形銀行、荘内銀行、きらやか銀行、山形信用金庫が出資を検討している。出資額は少なくとも合計1000万円以上。

     代表はウィラーツーリズム&コンサルティング(名古屋市)の小高直弘社長。同社は高速バス大手ウィラー・アライアンス(東京・新宿)のグループ会社。小高氏は交通関係の業界に明るいだけでなく、地域観光商品の開発や流通に詳しい。

     DMCやまがたは蔵王温泉(山形市)、かみのやま温泉(上山市)、天童温泉(天童市)の3地域の観光商品を重点的に開発する。天童温泉では天童温泉協同組合の7旅館が旅行商品の企画・販売を行う株式会社「DMC天童温泉」を設立した。かみのやま温泉、蔵王温泉でも近くDMOを設立する動きがある。

     DMCやまがたは主に3地域の地元DMOが開発した特産品やツアー商品をウェブサイト上で売る役割を担う。出羽三山神社の鏡池に鏡を奉納するツアーなど62件の観光商品を開発済み。神社仏閣での体験など地元でのネットワークをいかした独自商品を企画する。

     観光商品の予約・販売サイトの作成を専門に手掛けるエス・ワイ・エス(東京・港)も協力する。3地域の温泉旅館のウェブサイトと連携し、観光客の属性データなどを集めて分析。更なる観光客の誘致につなげる。

     これまで地域で観光に携わる事業者は特産品やツアーの商品化・販売、リピーターの獲得などを旅行会社に任せていた。DMCやまがたでは商品開発・予約販売・データ分析・リピーター獲得といった商業化の流れをすべて地元で完結させることを目指す。

     東北ではDMOの設立が増えているが、自治体が主導する例は宮城県で丸森町など4市9町がパソナと立ち上げるDMOを除き少ない。DMCやまがたは自治体主導に加え、設立当初から地銀が資金面で事業を後押しする。地銀は地元の旅館や観光施設を顧客として抱えており、観光地を巡るツアーをつくりやすくなる効果も期待される。

    新年、中国人殺到の"隠された華人国家タイ"

    新年、中国人殺到の"隠された華人国家タイ"
    JBpress1月30日。抜粋・編集


     中国最大の“民族大移動”が始まった——。
     今年の春節(旧正月)は1月28日で、中国では27日から2月2日までの1週間が正月休みだからだ。

    旅行先で圧倒的ナンバー1のタイ

     春節旅行で断トツ人気は「タイ」(携程旅游調べ)。実はタイは、今年の元旦連休でも圧倒的人気ナンバー1の旅行先で、昨年の年間渡航先(中国本土以外)ランキングでも堂々の3位(1位、2位が中国の香港、マカオ)に躍り出て、4位の韓国、5位の日本を引き離した。
     テロなどの影響から回復した2015年には、前年比70%増の約800万人の中国人がタイを訪れ、「観光客の約30%は中国人観光客」(タイ政府関係者)と、中国人にとって最も人気の旅行先となった。
     同年、日本へは前年比約100%増のほぼ500万人の中国人が訪れたが、対人口比(タイの人口は約6900万人、2015年)では、低迷するタイの経済状況の中、中国人観光客の影響は日本とは比較にならないほど大きい。
     さらに、最近では日本と同様、ロングステイ先としても人気急上昇。中国の中産階級が、穏やかな気候、コスト安、PM2.5などの大気汚染に悩まされない「アジアの移住先」として熱い眼差しを注いでいるほどだ。
     最近ではもともと親日のお土産屋さんでも漢字表記の看板が増え、「こんにちは!」から「你好(ニーハオ)!」とかけ声が取って変わっている。
     中国人相手にトラブルも多いが、中国人観光客急増で、良くも悪くもタイ社会に大きな影響を及ぼし始めている。
     もともと中国人がタイに興味を持ち始めたきっかけは、3人の中国人がタイで一攫千金を狙ってドタバタ喜劇を演じるコメディ映画『人再囧途之泰囧(Lost in Thailand)』(2012年公開)。当時、中国映画史上最高となる約13億元(約220億円)の興行収入を上げ記録的な大ヒットとなった。
     その影響で同映画の撮影地となったチェンマイやプーケットが特に人気で、ブランド品が格安で大量に買い漁れる“爆買い天国”のバンコクも欠かせないらしい。
     もう1つの理由は、中国政府がタイを早々に親族訪問先とし海外渡航解禁国に指定したのに伴い、タイ政府が段階的にビザ要件を緩和してきたこと。
     昨年11月末には、タイ政府は、2016年末から2017年初頭にかけ、大使館でのビザ申請費用免除、現地ビザ申請費用引き下げを発表。
     中国人観光客が急に増えるとトラブルも必然的に多くなる。昨年末、タイでは背後で中国マフィアが絡む、ツアー費は無料だが宝石店などで破格な土産品を強要する中国人相手のツアー「ゼロドルツアー」の取締り強化が図られ、中国人観光客が一時減少した。
     タイ政府は中国人に対する”規制緩和”で、「観光収入がGDP(国内総生産)比10%を占め、観光客数でもアジアでトップ、世界有数の観光大国のタイの同収入、2割近くを占める中国人観光客の大量消費は経済回復に欠かせない」(タイの経済アナリスト)と今年は一層の中国人観光客のてこ入れを狙っている。
     「今年の旧正月期間の外国人観光客数を前年比約4%増の82万5000人、観光収入は約10%増の191億バーツ(約630億円)」(タイ政府観光庁)を見込んでいる。
     こうした中、中国人がそもそもタイに殺到するもう1つの理由は、タイが、「隠れ中華国家」だということだ。
     春節は中国だけでなく、台湾、香港、さらにマレーシア、シンガポール、ベトナムのいわゆるアジアの「中華圏」も祝日で、多くの店は閉まっている。
     したがって、旅行先は当然、「非中華圏」になるわけだが、春節時、タイへの観光客の半数以上が、中国を含めたマレーシアなどの東南アジア人が占める理由は、タイでは旧正月は祝日化されておらず(タイの新年は4月)、「非中華圏」と見なされているからだ。

    タイでは同化した華人

     さらに、街中の表示もタイ文字がほとんどで、中国風の家屋も見られない。公用語はタイ語でタイ人で中国語を話す人はほとんどいない。伝統的な中国料理店もあるが、ラーメン店など日本の中華料理店の方が断然多い。
     しかし、タイに長く住むと、「中国系の血が入っていないタイ人はいない」と聞くほど、実際、中華系の人はかなり多いと知らされる。
     そもそも東南アジアの華人は約6000万人と言われる。タイでは約15%が中華系で、約80%のシンガポールや約20%強のマレーシアより低いが、人口数では、約1000万人と最大だ。
    「タイ華人」の多くは中国・広東省潮州市周辺出身の潮州人で、広東、客家、福建、海南人も居住する。
     タイ王室も例外ではない。現王朝チャクリー朝の始祖はタイ人だったが母親が華人で、新王朝以降も華人姓「鄭」を名乗り、ラーマ2世の正室の1人も華人で、この正室の子孫が王位を代々継承してきたからだ。
     さらに、「名君」ラーマ5世まで華人を優遇する政策を推進してきた。昨年末、新国王に就任したラーマ10世、その父上の故・プミポン国王(ラーマ9世)も中国系の血が混じっているということになる。
     さらに、政財界に至っては、それこそ「華人系でないのを探す方が困難」(タイ史専門家)なぐらいだ。
     まず、政界だが、その影響力は絶大だ。今日のタイ情勢を語るに不可欠なタクシン元首相も華人。当然、妹のタイ初の女性首相インラック氏もそうだし、華人でありながら反華人政策を唱えた独裁者のピブン、さらにはチャチャイ、チャワリット、アピシット・・・、歴代首相のほとんどが華人系
     そのため、副首相や大臣など首相を支える政権の重要ポストも華人系で埋められる。言い換えれば、近年続く政冶不安の背景には、とりわけこれら華人同士の利権問題が発端となっているほど、タイの政冶にも華人は深く浸透している。
    「タイ華人」の歴史は長く、古くは、対中貿易でタイに利益をもたらした場合、国王配下の官吏などに重用され、爵位を持つ華人も誕生。現在は華人3世や4世が台頭し、財閥のほとんどは華人が創業者で、中華系が牛耳っている。
     セブンイレブンなどを展開する大財閥CP(チャロン・ポカパン)グループはタイを代表する華人系(潮州系)多国籍企業だ。
     タニン会長は、政財官界、軍に極めて強力な影響力を持つプレム枢密院議長(元首相、元陸軍司令官)の側近としても知られ、政財界に大きな影響力を持っている。
     CPは、約40年前、中国・深圳経済特区に世界で最初に投資した企業で知られる。中国と米国の合弁企業として、飼料工場などを手がけてきた。以来、同グループの中国事業を現地で指揮してきた、会長の右腕で実質グループを動かすタナコーン・セリブリ副会長は中国からの移民3世だ(中国名、李紹祝)。
     手がけた事業は数百件に登り、金融から2輪車製造までと幅広い。世界を驚かしたのは中国最大自動車メーカー「上海汽車」の初の自社ブランド海外進出を、タイで同社と合弁で生産開始を決定したことだった。

    貿易額でも日本を抜き中国がトップに

    ASEAN(東南アジア諸国連合)でインドネシアに次ぎ、第2位の経済大国のタイは、アジア経済の集積拠点で日本の企業も自動車メーカーを中心に製造業が多く進出し、CPを含めた華人企業とも合弁事業を展開してきた。
     しかし、ほんの数年前までは、タイの貿易総額で首位だった日本は2位となり、中国が首位に取って代わった。
     「タイ財閥の多くは、中国の進出で成長している。タイ華人は、中国事業で成果を得た分、中国企業に協力したいと思っていて、そういう親中企業は多い」(タイの経済アナリスト)という。
     もともと「タイ華人」は、13世紀の初代スコタイ朝以前から渡来し、中国や日本との貿易拡大に伴いタイに渡ってきたという。その後、急速に台頭した日本人勢力を、華人が国王に箴言し、追放。以来、対外貿易は国王専売とされ、華人支配となったという。
     結果、華人は国王配下の官吏などとして重用され、爵位を持つ華人も生まれ、18世紀のビルマ軍侵攻でアユタヤ朝が滅亡後は、爵位を持つ潮州系華人のタークシン(中国名:鄭昭)が反乱、第3代トンブリ朝を築いたと言われている。
     結局、タイに華人王朝が誕生したことで、以来中国との朝貢貿易が活発化し、潮州人などの華人がタイにやって来たらしい。
     東南アジアでは、貧富の格差を背景に、先住民と華人が対立するのが常だ。インドネシアではオランダ統治が終わっても、中華系住民は経済力を誇示し、今も、インドネシア人と中華系との関係はしっくりいかない。これはべトナムでも同じだ。
     当然、隣国のマレーシアのように、ブミプトラ政策(マレー人優遇策)をする必要もなく、いざこざもない。東南アジアで唯一、タイが華人の「現地化」を成功させたのだ。
     その背景には、人頭税増税でゼネストを起こした華人を「東洋のユダヤ人」と批判し、これまでの華人優遇策を転換させたラーマ6世の存在が大きい。国王は華人のタイへの同化を模索し、属地主義を採用
     その後、タイ王国は1930年頃から、本格的なタイ人独自のアイデンティティー育成に力を注いだことが挙げられる。
     タイ国民に民族的血統に関係なく、「タイ語、タイ文化、タイ史の履修の義務化で、マレー語や中国語教育を禁止」「タイで獲得した経済的利益の国外持出し禁止」「タイ国王とタイ民族への政治的忠誠を義務付」などを実施。
     その結果、「タイ華人」はタイ人化し、「タイ人」として王族にもなり、上座仏教の僧侶にもなり、政治家にもなり、実業家にもなった。
     近年、タイでは、政冶的な暴動が発生するが、これは中華系とタイ人の対立でなく、中華系を含む「タイ人同士」の政治的軋轢から起こっている。
     同政策とともに、第2次大戦後は、外国人移民を制限。結果、タイ人との同化が進んだ「タイ華人」の3世や4世の多くは、タイ語しか話さず、近隣諸国の華人と違い、華人としてのアイデンティティーを標榜しない。

    親中政策を採る軍事政権

     しかし、約300年の歴史で世界で最古のタイ最大の中華街「ヤワラート」では赤や黄色、金色の極彩色が眩しい春節の飾りつけが目を引く。
     そこには、2階から5階建ての棟割長屋で、1階が中華料理店などの店舗、2階以上が住居や倉庫に使われる中国風家屋が軒を連ねる。
     そこで味わえるタイ名物の「クイティアオ・センヤイ・ラートナー・タレー」という料理は、日本のあるガイドブックでは「タイ風海鮮あんかけ太麺」として「タイ料理」と紹介されている。
     しかし、タイ華人の友人曰く、「タイ料理にあんかけはない。クイティアオはタイ料理には違いないが、あんをかけたらタイ料理でなく、中国料理だ」と一笑された。
     1月中旬、英軍事誌「ジェーン・ディフェンス・ウイークリー」は、「2026年までに中国からタイへ通常動力型潜水艦3隻が引き渡される」(タイ海軍当局)と中国製潜水艦の対タイ輸出スケジュールを暴露した。
     クーデターで軍事政権が発足後、欧米との関係が冷え込むタイは、中国との関係を深め、“フリーハンド外交”を展開。両国の間では、ビザ発給要件が緩和され、中国とタイとの関係は一段と深まっていく。
     表面上中国色が出てないものの実際は相当に中国色が浸透し、しかしながらタイ色にこれほどうまく変身している華僑社会は世界にも例を見ないだろう。
     だからこそ、この“隠れ中華国家”に中国人は親しみと魅力を感じずにいられないのだろう——。
    筆者:末永 恵

    2017/02/01

    評価が低い5代徳川綱吉だが… 近年の研究で新たな説

    評価が低い5代徳川綱吉だが… 近年の研究で新たな説
         
    2017/1/27 dot.

     1月28日は旧暦のお正月。日本ではほとんど意識されることがなくなった旧暦だが、日本に太陽暦(現在の暦)が導入されたのはわずか145年前のこと。飛鳥時代から明治時代までは一貫して太陰暦と呼ばれる旧暦が使用されていた。しかも江戸時代に至るまで、中国で編さんされた暦しか日本にはなかったのだ。

    ●「犬公方」の実母・桂昌院

     江戸時代には、平安時代に伝えられた暦を800年以上にもわたり使い続けていたため、すでにあちこちに不便が生じていた。古い暦の改正に取り組み、初めて日本人の手で編さんされた新しい暦が誕生したのが1685年。編さん者は渋川春海という天文学者で、これを命じたのは五代将軍・徳川綱吉だった。

     徳川綱吉は、徳川幕府の体制を盤石にしたと言われる三代将軍・家光の四男である。ほとんどの日本人はこの将軍について、生類憐みの令や、犬を過度に大切にさせたことからつけられた「犬公方」というあだ名しか知らないのではないだろうか。しかし近年の研究では、綱吉と実母・桂昌院の時代に、それまでの政治から180度変わったのではないか、という説も出始めている。

    ●江戸時代のシンデレラ・桂昌院

     桂昌院は、日本の神社仏閣にある建造物を大いに救ってくれた人物だ。これは、波乱に満ちた彼女の人生に裏打ちされた行為と言ってもよいかもしれない。

     桂昌院は、元の名を“お玉”と言った。京都・西陣の八百屋の娘として生まれ、母の再婚や義理の父のあっせんなどもあり、13歳で大奥に侍女として上がる。その後19歳で春日局(家光の乳母。実母という説もある)の目に留まり、やがて家光の側室となった。

     最終的に、女性としては最高位である官位(従一位という上から2つ目の位)まで上り詰めるのだが、こうした桂昌院のシンデレラのような出世を指して、「玉の輿」という言葉が生まれたのではないか、とも言われている。

    ●神仏からの加護へのお返し

     桂昌院は、2度ほど僧侶に「あなたの産む子は天下人になる」と言われている。しかしながら、わが子・徳松(のちの綱吉)は四男である。本来ならば将軍の椅子が回ってくることはないはずなのだが、桂昌院はこの僧たちの言葉を信じ、幼い頃から徳松に学問中心の生活をさせた。今でいう帝王学を学んだ綱吉は、34歳の時ついに将軍職への道が開き、54歳となった桂昌院は将軍の実母の地位に座ることになる。

     この出世を神仏の加護と考えた桂昌院は、以後、日本全国の寺社に大いなる寄進と普請を進めていった。奈良・東大寺の大仏殿をはじめ、法隆寺、唐招提寺、恩のある善峯寺の復興、東京文京区の護国寺の建立など、まさに今現在残る多くの遺産の保全と建築に桂昌院と綱吉は関わっている。

    ●生類憐みの令が誕生したわけ

     やがて、綱吉に嫡男が生まれるも5歳で夭逝。以後、子宝に恵まれないのは「世に対する功徳が足りないせい」と考えるようになった綱吉と桂昌院は、功徳となる改革が何かないかと考え始めた。時代はまだ、町中での辻斬り、子殺しなど戦国の風潮が残る荒れた世の中、綱吉が発布したのが「生類憐みの令」だったのである。

    「犬を殺してはならない」という側面ばかりが取り上げられている法律だが、困窮者には米を支給、病人に対する無料での治療、全国で没落した100以上にものぼる小さな寺社の復興資金の提供など、今でいう福祉的・公共事業的な側面を持つ法律でもあったと近年の研究では指摘され始めている。この時幕府が負担した費用は70万両(現在の700億~1000億円くらい)で、全資産の1/3をつぎ込んだと記録されている。

    ●吉宗が師と仰いだ綱吉

     結局、綱吉に世嗣ぎは生まれず、富士山が爆発したり、赤穂浪士が仇討ちを果たしたりと、綱吉にとっては不運にも見舞われ、後世の悪評にもつながってしまう。加えて以後の六代・七代目は、長い徳川幕府の中で最大のピンチとなる綱渡りの世代交代時代となるのだが、続く八代・吉宗は、テレビドラマとしてもおなじみの名君として知られる将軍となった。この吉宗は綱吉をとても尊敬し、自らの改革にも綱吉の考えを取り入れ、自分の墓も寛永寺の綱吉のそばに作らせているほどである。

     また、桂昌院が詠んだ句に「法の師のをしえたまうにならいそてわが後の世もたのみこそすれ」(もう何年も仏さまの教えに触れています。ですから、どうか私の後の世も人々が幸福でありますようお守りください)というものがある。この2人がいなければ、神社仏閣が今のような形で存在していたかどうかは怪しいものだ。

     桂昌院の生まれた西陣近くにある「今宮神社」では、彼女にちなんだ“玉の輿守り”が授与されている。また、江戸城で桂昌院が毎日拝んでいたと伝わる「福壽神」が鎮座する東京秋葉原の柳森神社には、玉の輿に乗りたい人たちの参拝が多いと聞く。

     玉の輿に乗った桂昌院は、ほんとうに幸せだったのかは今ではまったくわからないが、乗ったら乗ったで、悩みも深く、責任も重くなるものかもしれないと、桂昌院の一生を見ているとしみじみと感じてしまうのである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)