2017/10/28

小江戸「川越」の由来は。「河越」か「河肥」、どっち!?

小江戸「川越」の由来は。「河越」か「河肥」、どっち!? 
BestTimes 2017年10月26日 を抜粋編集
 
全国5位730万人もの人口を抱える埼玉県の歴史を地名で紐解く。地名の由来シリーズ最新刊『埼玉地名の由来』から、著者・谷川彰英が「小江戸」川越の地名の由来を歩く「河越」か「河肥」か

 川越市はさいたま市、川口市に次ぐ三五万人の人口を擁する埼玉県第三の都市である。「 小江戸(こえど)」で知られる観光都市であり、年間700万人を超える観光客が訪れている。

 川越藩は五代将軍徳川綱吉の側用人(そばようにん)として活躍した柳沢吉保(よしやす)(1658~1714)が藩主を務めたことで、徳川幕府にとって最も重要な藩の一つとしてみなされていた。

 現在蔵造りの建物が並ぶ一番街は、江戸時代からの目抜き通りだったが、明治26年(1893)3月の大火によって多くの家屋を失い、それを教訓にして全体を蔵造り建築に切り替えたものである。

 近年は外国人を含めた多くの観光客が押し寄せているが、その目玉になっているのが、川越のシンボルと言われる時の鐘だ。江戸時代から城下に時を告げてきた鐘つき堂だが、現在の建物は明治の大火後に再建されたものである。

 現在は「川越」と表記するが、古くは「河越」とも「河肥」とも書かれており、「河を越える」意味なのか、「河によって肥えた」意味なのか、いまだに決着を見ていない。

「河によって肥えた土地になった」意味での「河肥」?
「河肥」の文字は市内の養寿院(ようじゅいん)にある鐘銘に「武蔵国河肥庄 新日吉(いまひえ)山王宮」とあることで知られている。


この鐘が奉納されたのは「文応元年十一月廿二日」となっており、西暦では1260年に当たる。鎌倉時代中期のことである。

 この「河肥」という文字は新日吉山王の社領である時だけ使用されており、その他の時は「武蔵国河越庄」と書かれているという。さらに『吾妻鑑』では川越の地名や河越氏の姓を記す場合は「越」の文字を使っていて「肥」の文字は使っていないとされる。

 これは『川越歴史散歩』(1958年)を書かれた岡村一郎氏の見解だが、氏の見解には示唆されるものがある。それは先に紹介した「武蔵国河肥庄 新日吉山王宮」について、次のように語っていることである。

「私の考えではこれは後白河上皇が永暦元年(1160)京都東山に創建した新日吉社に河越庄を寄進した時の荘園寄進文に、嘉字(かじ)を尊ぶ習慣から肥の字をあてたのではないかと思っている」

 たぶん、この指摘は正しいであろう。奈良時代以降、地名は「好字二字」を使う傾向が強まり、単に「河を越える」意味での「河越」ではなく、「河によって肥えた土地になった」意味での「河肥」という文字に変えて寄進したであろうことは想像に難くない。

 私も以前からこの二つの説のうち、どちらが正しいのかと頭を悩ませてきた。「河越」説は、例えば大井川の「川越え」に見られるように川を渡るという行為はよくわかる理屈である。しかし、川が豊かな土砂を運んでその土地が肥えたから「河肥」という地名が生まれたというのは相当無理があると考えてきた。

 地名は通常、目に見える形状などで命名されることがほとんどだからである。岡村氏の説にのっとって、「河肥」としたのは「越」という文字に替わって「肥」という嘉字を当てたのだとすると、この疑問は解消することになる。

 岡村氏によれば、鎌倉時代は普通「河越」だが、特殊な場合にのみ「河肥」を用いた。さらに室町時代には両者を併用し、「川越」が一般化されたのは江戸時代になってからだという。──いちおう、これが妥当な解釈だとしておきたい。
〈『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉

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